疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

聖痕とヴィジョン

 


劇場アニメ「青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない」を観てきました。劇場前作は進路の話として、本作は母子の話として揺さぶられるところがありました。いずれも兄妹の動きが軸となるところも大いに好みでした。

 

映画館から帰ってきて、作中の概念である思春期症候群について話したい気持ちになりました。原作小説は読んでおらず、テレビシリーズを観た記憶もだいぶ古くて印象に頼るところが多いのですが、ランドセルガールを観て個人的に好きな主題があるように思えたため勢いのあるうちにここへ書き残してみます。

 

今作で何度か説明されることとして、母親とは母である前にひとりの人間で、自分の考えでなにか行動を取ることがあります。そして子供の側としては、母がどういう人間かというのはよく知らなくて、何を考えているのかも判りません。その結果、麻衣さんは中学時代のグラビアの件で怒りを抱え、理央さんは母のことを諦めています。咲太さんも自分の母親がひとりの人間としてどうかはほとんど知らなかったといいます。親の気持ちは親になるまで判らなくてよい、とも語られました。ここで、こうした難儀さはどうしようもなさそうに言われているのですが、どこかに解消の余地がないのでしょうか。いえ、実際、母と兄妹が集う最後の場面には、これまでの関係が氷解する瞬間がありました。しかし、そういうことは簡単には起こらないわけで、では、あの瞬間に至るまでになにがあったと言えるのでしょうか。

 

そのためにはまず映画一本分の尺を要したということになります。青ブタシリーズのお話は、基本的に思春期症候群によって幕を開けます。今回、咲太さんは思春期症候群の訪れをお腹にできた傷によって確信します。傷や痣が体に生まれることは、本シリーズでは思春期症候群の証拠のひとつであって、今作でも麻衣さんや理央さんに見せて回ることになります。でも、えっと、これ一体どういうことなんでしたっけ?

 

不可解な出来事を理由のよく判らない不可解なものとして抱え続けるのではなく、解明すべき事件として取り組むための確信をもたらすものとして、傷は現れています。人は、目に見えるものは本当らしいものとして感じてしまう性質がありますね。だけど、《目に見えることならすべて、すぐに信じるかい?》どうかな?

 

目に見えるものの一種として古来、夢で見たことについても信心されてきました。あるいは巫女が見る宗教的な幻覚のようなものもあったかもしれません。それらは神託として、あるいは未来視として、目に見えるように思えることはヴィジョンと呼ばれてきました。現代人のわれわれはヴィジョンにどこまで信を置くことができるでしょうか。(いえ、昔の人もあまり信じてなかったかもしれません。)身体についた傷は、たしかに目に見えるものです。そしてダメ押しと言ってよいでしょうか、本シリーズではこの傷が別のひとによって実際に触ることもできることが強調されています。

 

ヴィジョンは、自分の意志とは関わりなく降りかかってくるものであるといえます。これは夢のことを思えばそうですよね。ときおり迫真の夢から目覚めたときの戸惑いを思えば、それに類したことが降りかかってきたとき、自分になにができるでしょうか。本作において体に物理的な傷や痣ができることは、ヴィジョンに襲われ、いったいいま自分がどのような状態であるのかすら曖昧になる、というようにはならない手がかりを与えてくれています。つまり、いま自分が思春期症候群と呼ばれる都市伝説に見舞われているという確信によって、事態を解くための動きを取ることができるようになっています。

思春期症候群に関わる彼らは、眼の前で起こっているありえない出来事について、傷と同様に目で見えていること(ヴィジョン)であるがゆえに、実際的なものとして捉えてゆきます。今作で変容して見えたヴィジョンは、自分がまわりの人々を映像のように見ていることしかできない状態であったり(これは第1話の麻衣さんと同じ)、ランドセルガールの登場というのもありましたが、そのうちもっとも巨大だったのは、家族がまったく別の生活を送っている世界にほうりこまれたことだったと思います。こんなにも思い通りにならず降り掛かってくる事態はいったいなんなのでしょうか。まぁ、判らないのですが、そのなかで母の日記を読んだり、別の世界の母と会話をしたりということが出来て、そのことが最後の病室の場面へ繋がってゆきます。

 

母親とは母である前にひとりの人間である、という言説で閉ざされてしまう事態があって、それによって生きる難儀さを抱えているとき、不随意に訪れるヴィジョンは言葉を超えるための希望になるのだと思います。映像作品において彼らの見たヴィジョンとはわたしたちもそのまま目の当たりにすることであって、映像作品の良さというのはヴィジョンの共有、ひいてはこうした希望を分かち合えるところではないかと、わたしは思っています。

 

さて、今作の最後は大学生編の予告となっています。ここでは本シリーズにおいて一種の未来視ができるとされる牧之原翔子さんが「見る」ことのできない存在として、霧島透子という人物の存在が警告されます。このことは、これまでヴィジョンについて描いてきて幕を閉じた高校生編に一石を投じる展開であるように感じています。

 


なお、わたしのヴィジョンへの思い入れについては「宇宙よりも遠い場所」という作品でわたしが好きな場面を語るときにも出てきていますので、宜しければそちらも読んでいただければと。

白石結月さんと夜のヴィジョン - 疏水分線 (hatenablog.com)