疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

描ける絵

そこに祭祀的な意味もないだろう、あまり素朴なかたちでもない、それなりの意匠をもつがしかし顔をちょっと描いてみたというだけの落描き。その歴史は意外に古いようですが、多くは現存していません。

 

(83)落書き(上)―役人の顔 - なぶんけんブログ (nabunken.go.jp)

 

人の姿を描いた絵をあまり見ることのなかった時代に、どういう風にこの落描きは生まれたのでしょう。いや、前提が間違っていて、もしかすると都にはそこらに人の絵が描かれていたのでしょうか。

 

これは似顔絵なのでしょうか。それとも想像のひとなのでしょうか。自分だけわかるように描いたのでしょうか。隣のひとに見せるために描いたのでしょうか。

 

字を書くお仕事に従事されていたであろう、ということはヒントかもしれません。字は自分の手を離れて他の人の手にも渡るもの。だから。

 

おい、ちょっとこれ見てみろよ。うふふ。〇〇さんの顔。

 

これを交換される顔と呼ぶならば、私的な顔というのもどこかで生まれています。誰に見せるためでもなく私がひとりで生み出す顔。

 

ピグマリオンの伝説では、彼は自分の想像の女性を彫刻しました。こうした私的な顔そのものは後世にあまり残ることなく、伝説のなかで偲ばれています。

 

ところで、描き手は理想に思う顔を意のままに描いているわけではない、というのは絵を描く人であればわかってもらえそうなのです。すくなくともわたしは、小学六年生のとき「描けそうな絵を真似して描く」ところから始まりました。それは理想という概念とはだいぶ違っていたと思います。

 

いまわたしは何かの理想を描こうとしてるでしょうか。描ける絵のなかでかたちになった愛すべきものたちを愛でているという感じはあります。

 

この描ける絵ってなんなんでしょうね。絵になりそうな雰囲気を投機的においかけて形にしてゆくのか。たしかに、よく失敗があります。ゼロではないけど少数のルールで、手を動かして形を探すんだ。

 

ルールを増やすことに慎重であろうとは思っています。まずは目と輪郭の描きかたくらい。手もいくつかのかたちで、先っぽはふくらんだり、ほそくなったりする。

 

生成、という言葉はかつて、生成文法、図画であればL-Systemといった文脈になじみがあります。少数のルールで生長する線のイメージは、現在の拡散モデルが面を更新する様子とはだいぶ異なっているように思えます。描ける絵というのは強いて言うならどっちだろ、明示的に引いた輪郭からイメージが広がるときは前者で、なんとなく引いた線が意味あるものに感じられてくるなら後者なのかもしれないです。AI的な発想を参照してみた、というだけの話なのですけども。