疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

雨を告げる漂流団地

幼稚園から小学校にかけてのことを、間取りまで思い出してみましょう。自宅のなか、県営プールのなか、学校のなか、本屋さん、いつもの中華料理屋さん、すぐなくなったほうの中華料理屋さん。それらをつなぐ道、思い出せなくて途切れる道。連続した空間としてある町は、どうして町全体でなくそうした部分部分だけがはっきり浮かぶようなのでしょうか。

幼いころ最後の引っ越しをした家は、間取りも覚えていません。母が言うにはふたりで歩いた田んぼの小道があって、だけどわたしの記憶にはそれもなくて。記憶がよいとか悪いとか、結局のところ毎日のように薄れてゆく全てのうち、それぞれがかろうじて覚えていると思えるビジョンは重なることがなく、また、まれに重なるのでしょう。

「雨を告げる漂流団地」の冒頭、ふたりが歩いた団地の小道は、はたして誰の記憶だったでしょうか。しかし、海を漂流する団地はもう1階から外へつづく小道を失ってぷかぷか漂ってゆきます。空間としてじっさいあったはずの接続をうしなって、ただ時々はっきりと浮かんでいる団地や町の建物。ふたりが記憶する団地だけの間取りには、ときどきまた誰かの記憶が漂って寄せてくるようでした。が、それらは本人にしか判らないことです。

観覧車のひとがそんな風にすっと出てくるところが好きでした。