疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

すずめの戸締まり(2)

近所に巨大な廃墟がありまして、平城宮跡っていうんですけど。

 

遺跡と廃墟の違いについて考えてしまったのですが、一帯の暮らしが激変する理由のなかに、遷都、というあまり例をみないものがあります。平城宮の建材は長岡宮へ運んでますので、建物が朽ちてゆくいわゆる廃墟という絵面からは遠いと想像するのですが、9世紀半ば以降には水田化した歴史、復原が始まってからも長らく遺構やそのしるしだけを眺めていた幼少期の記憶をもって、なにかがなくなってしまった場所であるという思いはずっと抱いています。

 

一般には、遺跡とは歴史上の暮らしを、廃墟は現在の世代、遠くても2世代遡るくらいまでの暮らしを指しているように思われます。すずめの戸締まり作中の遺跡といえば東京の要石へ続く地下は神殿のようで、それまでの廃墟とは様子が違って見えました。あそこは古文書から繋がる場面ですので、やはり歴史を伴っているように感じられます。しかし、話の広がりとしては歴史と接続しながらも、あの神殿は入口にはならないんですよね。入口は彼女の生家の廃墟でなくてはならない。つまり、全ての時間がある場所だとしても、彼女らが直接に触れることのできる範囲は、自分の世代とたぶん親とかその上の世代くらいまでなんじゃないでしょうか。

 

遺跡と廃墟の違いを考えてたどり着いたのが、すずめの戸締まりは平城宮跡で天平人の声に耳を傾ける話ではないということで、なにを馬鹿なと思われそうですが、彼女が廃墟を目指すうえで東京地下遺跡との別れがあったことは、わたしとしては大事な出来事にみえてきました。古文書も直接の答えは教えてくれない。ひとのひとつひとつの命や暮らしは短いというあのときの草太さんの声は、けれど人々は歴史を築いてきたという強弁は伴わずただ切実にそうなのであって、そのことは遺跡よりも廃墟を介して語られているのだと、そんな風に改めて聞こえてきました。