疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

対話についてのアンカー (4)

これは会話型インタフェースにまつわるメモですが、同時に「対話」という言葉も採らなくてはならない状況について、そろそろ触れてゆく必要があります。論点が広く、それぞれに深められてもいないので、今はただアンカーを打っておくだけの部分が多くなります。しかし、この記事のシリーズはそのためにあるものです。

 

対話をdialogueのことだとするならば、対話(dialogue)と会話(conversation)の違いについて、二人で話をすることを指すか、それ以外も含めるかという表層的な違いは大切に思えます。なぜならば、人とコンピュータのやりとりについて言えば、そのほとんどがまだ二人で話をするdialogueの域を超えられていないためです。

 

コンピュータが三名以上の会話に参与することがあまり見られない理由は幾つもあります。一つには、複数人とスムーズに話を進めるために必要な身体をまだ十分に持ち得てない点があります。(この話題は一旦アンカーを打って、またいつか戻って来ることにします。)

 

コンピュータからはまだ遠い場所にある会話にまで射程をとりたいが、一方、現在のコンピュータについて考えるときには対話という言葉が向いているというのが冒頭に述べた状況なのかなと思えます。加えて、対話的(interactive)という訳語もよく現れるのです。この2つの言葉を自分がコンピュータの文脈においてどう使い分けてるのかは、いまようやく考え始めたところです。

 

もう一つアンカーを打っておくと、コンピュータの画面上の絵として複数の人物がいて、動いて会話する様子をわたしは見て、聞いている。そうした形での会話的な状況は少なからず見られます。いまあえて会話型インタフェースという呼び名を採用するのは、この場面を意識してのことです。

 

このシリーズの冒頭、「人工物と会話するという観点」について「鍛冶師は鉄を叩くことで鉄器と会話するという気持ち」というたとえがすっと出てきたのは、いま「クプルムの花嫁」がお気に入り漫画であるからに違いないです。それにしても、interactionについて再び取り上げると、人工物との対話(interaction)について考えることと、会話する(conversational)人工物について考えることはだいぶ違っていて、後者も古くから想像や伝説のなかにありました。人間の命令を聞くゴーレム、あるいは、きちんと確認はしてないのだけどギリシャ神話の動く彫像たちも言葉を発するものが居たのではないでしょうか。これらは本来静物であるものが人のように動くという怪異の物語であって、彫像が人間の女性として命を得るピグマリオンの伝説はその究極的なものと言えそうです。しかし、人工物の会話能力に対して人間のような知性を見つける物語は、もっと時代を下るといえるでしょうか?

 

フランケンシュタインの怪物は、その言語獲得能力が知性の証として描かれていたようです(未読)。ギリシア神話のピグマリオンは幾つかの戯曲に翻案され、「マイ・フェア・レディ」として今よく知られる形では、音声学者が(上流階級の)「人間のような」言葉を教えることで下町の娘さんを(上流階級の)「人間」に仕立てあげようとする筋へと変わりました。

 

ヒギンズ教授がイライザを「テスト」の場に出した様子は、どこか聞き覚えがあるようです。上流階級のパーティーで、イライザの「会話」ははたして参加者をだまし通せるのか。そう、チューリング・テストとはそういうものであったように思えます。

 

チューリングの思考実験は、機械の知性を会話のみで測る点が画期でした。このことで、コンピュータとの会話という文脈において、動く彫像のイメージはいったん保留され、そのままいまに至っているところがあります。ただ、人間らしさ?を会話だけで測れるのかどうか。マイ・フェア・レディにおいてヒギンズ教授の知性観が敗北で終わるという筋は知られているところです。

 

チューリングはなぜ、動く彫像(ロボット)相手の会話ではなくテレタイプ越しの会話で知性を測る考えに至ったのでしょう。西垣通がそのへんのことを話してそうだったのでいま「デジタル・ナルシス」を読んでいて、西垣の観点を借りるなら、チューリングは《自然》の対立物としての《人工》にエロス(怪異)を見出しておらず、自然イコール機械という思想を持っていたからということになりそうです。人間の思考から肉体にいたるまで機械と同一とみなせるため、会話を採り上げたのは単にその普遍性の一部を切り取ったに過ぎないということかもしれません。

 

テレタイプ越しの会話で知性を測るという、この制約の大きな思考実験がその後ひろく支持されたのは、なぜだったのでしょう。実際に実施可能な手続きを示したということはあると思います。あとはどうも、顔が見えないメディア越しの会話に人がロマンチックを抱きがちだというのもありそうです。