疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

ひといきの漫画

さて、夜闇にまぎれて今年あらたに読んだ漫画で好きな作品の話をしてゆきます。

 

加藤 龍勇「Scar Face」1-6巻

加藤さんの漫画の境地に至れるなら今の自分の絵などはぜんぶ投げ出してよいと思われるのですが、覚束ないまま明後日の方向を向いて絵を描いている次第です、

だけど、時々まねしようとしてみたり。

 

Scar Face では特に美少女と猫、音楽そしてSFという初期短編作品の諸要素を見つけられることも楽しみでした。それでいま改めて思ったのは、近年の長編作品では漫画の姿も変わってきてたのだなぁということ。読んでいてロングトーンを感じるんです。一息が長い。

 

漫画からコマ割りがなくなって、フルカラーのページを1枚ずつめくってゆく形になったのが見た目における明らかな変化です。コマがリズムを生み出すのではなく、1ページが1つの拍を生み出して1つの巻を構成する270ページを一気に吐き出しています。

加藤さんの漫画において音楽が世界の核心であることはモチーフであり続けていますが、いまは絵も言葉も音楽的なものと一体になりつつあるのをこのロングトーンについて感じています。人物と環境は半ば溶け合いながらも確かなエッジをもって連続し、言葉は明確に置かれて、独り言やふたり言を時にまくしたてる、そこに拍があって、拍を追いかけるときに感じる長い一息のような持続性は、たぶんわたしが息を止めるようにしてこの漫画を読んでしまうことと呼応しているように思われます。

 

報瀬誕ゲームブックの小話

(表紙下描き)

 

報瀬誕2022ゲームブック「プレゼント・デイ」のプリント&プレイありがとうございました! 本作は宇宙よりも遠い場所(よりもい)好きのひとが作ったよりもい好きのひと向けのゲームブックでした*1

 

よりもい好きのひと向けということで、ゲームブックではアニメ本編等とリンクした要素がいろいろありました。この記事では、どういうリンクがあったのか(あるいはないのか)という話を解説しておきたいと思います。ラベル(パラグラフ)順に説明してゆきますので、未プレイの方は以下プレイされてからのほうがよいかなーと思います。

 

よりもいの本編以降の物語を想像するとき、彼女たちが10年もしないうちに検討するであろう入学・卒業・就職に関すること、そして、短い間ながらも濃密な時間をともに過ごした南極チャレンジのみなさんとの関係がどうなったのかをいろいろ思いめぐらせます。

 

あのとき南極ゆきの観測船に乗ったみんなは、もともと居場所も年間の予定もあまり一致しそうにない、ばらばらカルテットどころかばらばらチャレンジなメンバーで、だけどあの旅に賭ける気持ちは同じだった、そして予算的な条件も機会も揃った、そういう一期一会な旅だったと思うのですよね。

 

以前の同人誌で小説を書いた時には、関係者のうち誰がいつどの場所に居ることができるのかを決める必要があって、南極チャレンジのその後について楽観的に考えた場合の年表を作りました。民間観測隊という本邦で実際にはない事業の3度目以降はどうなるのか、お金も人員も限られるなか、国の観測隊のように毎年出航できないにせよ、とんとん拍子に進むとすればどういう計画があり得るのか・・。

 

居場所の問題については例えば、越冬中のみなさんは11月には昭和基地におられます。すると、報瀬さんが館林で誕生日11月1日を迎えるとして、越冬中のみなさんは館林に居ることができません。逆に報瀬さんが昭和基地で越冬しているとすれば、どういうわけで越冬しているのか、そのとき誰がそばにいるのかを考える必要があります。少なくともアニメ本編の四人は春先にペンギン饅頭号で日本へ帰還して、南極チャレンジメンバーの多くは越冬中のため、その年の報瀬さんの誕生日に日本にいるメンバーは限られてます(名前のある人物では迎船長のみのはず)。いっぽう、いまはビデオ会議があるのでコミュニケーションには困らないかもしれません。

 

年齢も職業も立場も違って、それぞれに迎える節目、進む道があって、変え難い年間予定のなかで南極に行ったり行かなかったり、もしかしたら南極チャレンジも順風満帆でなくみんな暇をしている時期があるかもしれない・・まぁ、人生いろいろありますけども、かれらにまた一緒の時間を過ごせる機会があればなぁと思うのでした。

 

なので、前回はかっちり年表まで作りましたが、いっそ何も決めず、いろんな年の、いろいろありえた報瀬さんのお誕生日を集めて1つの本にしてみてはどうか、というのが今回の試みでした。タイトルは「プレゼント・デイ」で贈り物の日という意味ですが、現在の日、という意味も同時に込めています。本編でのあの旅を過去とするとき、年表で未来を1つに決めてしまうのではなく、全てを現在のこととして開いておきたい気持ちでつけました*2

 

序に【コンパサー】キマリさんが登場するのはアニメ本編のキマリさんに敬意を表しました。キマリさんがいなければあの物語は導かれないのと同様、このゲームブックもキマリさんがラベル(ゲームブックにおけるいわゆるパラグラフ)を付けていなければ手に負えないばらばらな断片となってしまいます。

 

この本が二分冊で館林編と東京編に分かれたのは予定外でした。話の構成としては元々そうなっていましたが、分量的にもちょうど同じだったので場所でわけることを思いつきました。仕掛けとして良くなりましたし、作るうえでもパラグラフのシャッフルが楽になりました。

 

さて、物語は11月1日に報瀬さんの誕生日を控えた10月から始まります。何年の10月に起こった出来事かは判りませんが、ばらばらに追いかけてゆきましょう。

 

最初の選択肢を除いてセリフには人物名をつけました。紙面が足りず、地の文とセリフだけで誰が話しているかを示すのが難しかったためです。最初くらい名前なしでやろうと思って書きましたが、それぞれ誰だか判りますでしょうか?

「南極関係のなにかが良いでしょうか」【G1へ】

「報瀬の好物といえば、柿の種だな」【G2へ】

「ペンギン!」【G3へ】

 

【G1】

彼女らがプレゼントに模型を選ぶという発想があるのか?とは思いましたが、あの旅の資金源のひとつとして七神屋ペンギン饅頭号バージョンのしらせ模型が発売された、という妄想が去年の報瀬誕イラストを描いたときからあったので、それをそのまま持ってきました。これは完成済みモデルのつもりでしたが、わたしが数ヶ月前から自分で立体物を作り始めた影響でプラモデルとなりました。

そもそもはよりもいファンのみなさんがフルスクラッチやプラモ改造でペンギン饅頭号(しらせ)を作ってこられたことにも影響を受けていると思います。

【G2】

報瀬さんの好きな食べ物が柿の種だという様子はアニメ本編に出てきませんが、公式設定でそうなっているのを反映させています。

プレゼントに柿の種だけというのはあんまりだといって、キマリさんがもうひとつ別のものを用意するよう提案してくれました。

【G3】

報瀬さんがむちゃくちゃペンギン好きだというのはアニメ本編のとおりです。

ゲームブックに登場するペンギンは、キマリさんの部屋にあるぬいぐるみのペンギン(青)やキマリさんがペンギン饅頭号にもちこんだ色違いのペンギン(ピンク)と同じ種類です。ピンクのペンギンは報瀬さんが室内でずっと抱いて離しませんでしたね*3

ピンクの子はまつげがあるなど、色のほかにも細かな個性があります。このペンギンたちはのちに2021年の南極観測船しらせ出港カウントダウンミニ物販イベント用に描き下ろされたイラストの中で、他にもいろんな種類のある様子が描かれました。

ゲームブックで同じシリーズのペンギンのぬいぐるみがたくさんあるよう書いたのは、こうしたことを反映させました。どのペンギンの話をしているのか思い出していただくために、表紙にもペンギンを描いておきました。これはまつげがないタイプです。

【G4】

最終的にどんな味の柿の種にするか思案したのですが、ふとクールミントガムに思い当たりました。ギャグです。あと、クールミントガムの元になったのはロッテが作った南極観測隊用のガムでしたので、小ネタとして盛り込みました。ガムのパッケージはペンギンの絵でおなじみですね。クールミント柿の種はロッテとのコラボ商品だとすると包装にペンギンの絵が描かれているかもしれません。

ガムの豆知識|ガムタウン|工場見学・学ぶ|お口の恋人 ロッテ

【G5】

吟さんからもらったぬいぐるみを何色にするかはだいぶ悩みました。プレイヤーの選んだ色と被らなさそうな色かつ動物ぬいぐるみの定番の色として「ねずみ色」にしました。

なんとなく報瀬さんには「グレー」ではなくて「ねずみ色」と言わせたかった。おばあちゃんがそう言ってそうなので。

【G6】

こちらはわたしが描いた去年の報瀬誕のイラストにつながるENDです。当時はここまで具体的に決めて描いたわけではありませんでしたが、ゲームブックを作ってるうちに、これはそういうことだったのかも、と思うようになりました。

【G7】

ペンギンの数や色でENDの様子が変わるようにしようと思って、いろいろ想像してみました。報瀬さんがベッドに入ろうとするときにもピンクのペンギンを放そうとしなかったのはアニメ第7話で描かれているとおりです。ペンギンがもしも二羽いたら、こんなふうにして寝ておられるかもしれないと思って書きました。

【G8】

南極チャレンジのみなさんとのその後を書いたENDです。順風満帆で忙しそうな未来は小説で書きましたので、それぞれの未来を生きつつ、南極へゆく機会も伺いつつ、ときどき理由を作って旧交を温めてる、みたいな感じです。

保奈美さんがこういうの得意そう、というのは眉毛を描いてた作中の視点もありますが、若い子寄りの感性を持っておられて「キマリたちと一緒に遊ぶことも」と公式設定にある印象を元に書きました。敏夫さんがはじめたことですが、熱心に通って取り組んでそうなのは保奈美さんかな、という感じです。

【G9】

アイスオペレーションで通じるかな、とは思いましたが、第13話に出てくる氷を取りにゆく作業です。報瀬さんがペンギンに囲まれるやつですね。

 

【東京編(T)表紙】

続いて東京編です。館林(TATEBAYASHI)編をTにしたかったのですが、東京に当てる適切なアルファベットが他になくてこちらをTにしました。【館1】【東1】にすれば解決だったといまになって気づきました。

表紙のライオン像はアニメ第2話に出てくる新宿東口のライオン像です。「群馬だってバレる」の場所ですね。

(ライオン像下書き)

【T1】

東京でどこへ立ち寄るかを選ぶ箇所です。

南極チャレンジのメンバーと会う機会を作りたかったのですが、よく考えるとどこにゆけば会えるのかアニメ本編の情報だけでは判りません。

第4話で立川から出発するので極地研のある立川で会えるように設定を考えようかとも思いましたが、今回は組織がどうとか年表みたいなことを厳密に決めるのはやめようという主旨だったので、どちらかというとギャグとして「南極チャレンジ事務所」を選択肢に追加しました。「そんなんないやろ(笑)」と思って選んで頂ければ正解(?)です。

【T2】

雑貨屋さんでの分岐です。どこでフラグが立つのかすぐには判らない書き方になっています。

【T3】

模型屋さんでの分岐です。どちらが正しいということはなく、ゲームとして敏夫さんと会う流れは難しいようにしてみました。

【T4】

南極チャレンジ事務所は作中に登場しない場所ですので、いったいどこにあるのやらよく判らない形で到着します。

立川の極地研の一室を民間で借りてるというくらいのことはありそうですが、今回はマンションの一室を借りているか、最も厳しい場合は個人宅を事務所と称してるか、というくらいのイメージで書きました。

熱いお茶を出してくるのは報瀬さんのおばあちゃんの流儀で、あのお家へ出入りしていた人は熱いお茶を出すようになってしまう、みたいな感じにしています。

挿絵のとおりピンクのぬいぐるみにはまつげがあって、報瀬さんが船内で抱いていたキマリさんのぬいぐるみと同じものです。報瀬さんがペンギンを抱いて油断している姿はどこかで吟さんに見られていたかもしれない、という想像の元に書いた展開です。ただ吟さんとしてはぬいぐるみが誰のものかまでは判らなかったので、報瀬さんと同じピンクのペンギンは自分用に買って、報瀬さんには別の色のペンギンをプレゼントしています。

【T5】

わたしとしては当初、柿の種だけをプレゼントにするつもりでしたが、キマリさんから異論が出たため別の展開を考える必要が出てきました。柿の種の形のクッションというのはだいぶ後のほうで出てきた発想でした。

【T6】

同じ種類のペンギンのぬいぐるみが幾つもある、というのは【G3】で書いたとおりです。公式の色としては青とピンクしかでていませんが、他の色があっても良いのではないでしょうか。ここはいろいろ想像して頂ければ、ということでした。

【T7】

人の気持ちに繊細な日向さんを描いておきたくて追加した一幕です。とはいえ悩みを抱えたまま進んでもらうのもなぁ、と思って、日向さん自身にも逆転の発想をもってもらいました。

【T8】

宗谷のプラモデルに定価7,480円のものがあって、なんとなく同じ価格にしてみました。

【T9】

東京でキョロキョロしていると群馬だってバレますね(第2話)。しかしキョロキョロしていればこその出会いもある、みたいな。

わたしが敏夫さん好きなので、なにかと登場しがちです。このゲームブックは結月さんの視点をお借りしていますので、結月さんが財前敏夫さんのことをどう呼ぶのかを決める必要がありました。作中ではお名前を呼んでないと思います。

ここではまだあまり打ち解けてないということで《財前さん》となっています。

友達へのプレゼントは彼女らから見て距離のある敏夫さんのような人が口をだす話ではないかもしれませんが、敏夫さんならつい言っちゃうかもしれないな、というのと、ゲームブックですのでそういう展開があっても良いかなと思いました。

 

以上となります。

 

この本はネットプリントですが、わたしの同人誌という形でリリースしました。コミケの開催が不安定だったこととわたしが東京を離れたことでしばらくよりもいの同人からは離れていたのですが、ネットプリントならば欲しい方には必ずお届けすることができると思ってやってみました。

 

手に取って頂いたみなさま、最後までプレイしてくださった皆様に改めて御礼もうしあげます。

 

2022年11月27日 ソガ

*1:・・なので、よりもいをご存じでない方は人物が判らなくて困惑されたかなとは思います。もし興味を持たれましたら、アニメのほうをぜひご覧ください。

*2:現在という意味でのプレゼント・デイは、言葉の印象としてはアニメ serial experiments  lain のOPからそのまま頂いています。

*3:私見ですが、このペンギンはキマリさんの妹のリンさんのものだと考えています(リンさんの代わりに連れてきた)

すずめの戸締まり(2)

近所に巨大な廃墟がありまして、平城宮跡っていうんですけど。

 

遺跡と廃墟の違いについて考えてしまったのですが、一帯の暮らしが激変する理由のなかに、遷都、というあまり例をみないものがあります。平城宮の建材は長岡宮へ運んでますので、建物が朽ちてゆくいわゆる廃墟という絵面からは遠いと想像するのですが、9世紀半ば以降には水田化した歴史、復原が始まってからも長らく遺構やそのしるしだけを眺めていた幼少期の記憶をもって、なにかがなくなってしまった場所であるという思いはずっと抱いています。

 

一般には、遺跡とは歴史上の暮らしを、廃墟は現在の世代、遠くても2世代遡るくらいまでの暮らしを指しているように思われます。すずめの戸締まり作中の遺跡といえば東京の要石へ続く地下は神殿のようで、それまでの廃墟とは様子が違って見えました。あそこは古文書から繋がる場面ですので、やはり歴史を伴っているように感じられます。しかし、話の広がりとしては歴史と接続しながらも、あの神殿は入口にはならないんですよね。入口は彼女の生家の廃墟でなくてはならない。つまり、全ての時間がある場所だとしても、彼女らが直接に触れることのできる範囲は、自分の世代とたぶん親とかその上の世代くらいまでなんじゃないでしょうか。

 

遺跡と廃墟の違いを考えてたどり着いたのが、すずめの戸締まりは平城宮跡で天平人の声に耳を傾ける話ではないということで、なにを馬鹿なと思われそうですが、彼女が廃墟を目指すうえで東京地下遺跡との別れがあったことは、わたしとしては大事な出来事にみえてきました。古文書も直接の答えは教えてくれない。ひとのひとつひとつの命や暮らしは短いというあのときの草太さんの声は、けれど人々は歴史を築いてきたという強弁は伴わずただ切実にそうなのであって、そのことは遺跡よりも廃墟を介して語られているのだと、そんな風に改めて聞こえてきました。

すずめの戸締まり

ネコにいいように感情を振り回されました。ネコめ・・。

 

随意でないこと。ネコは思い通りになってくれないし、ネコとしてもネコの思うようにはならない。そういうままならさについての話をこの20年ばかりだらだらと愛してはきました。

 

目の前に現れたネコのことからより大きなスケールの事柄まで、不随意なうねりのなかでどうにかしてゆこうとする。不随意といえば椅子になったひとはあまつさえ足の数が不安定なのですが、どうにかする、という点では椅子で走って飛んでのアクションがいちばんどうにかしていました。しかし、体が椅子になじんできた、というそのどうにかした結果が、かえって体が椅子として凍り付いてゆく不随意へたどり着いてしまうのでした。

 

不随意のあらわれが幾つもあるなかで、おばさんが魔が差したように言っちゃうところ、その背後にいる大きいほうのネコがだいぶ気に入っています。不随意であることは受け入れがたくても頭ではそういうものとして理解できることでもあったりするのですが、あの大きいほうのネコはわたしとしては判じがたくて、ぽよんと浮かんでくれています。作中での様子として、歩く椅子⇒ときどきありそう、巨大なミミズ⇒いそう、でかすぎるネコ⇒その間でちょうどいなさそう、みたいな感じです。

 

個人的に不随意であることの目玉はひとめぼれというやつなので、そこは好きでした。あと大学生の男の子たちが可愛かったなぁと思います。

報瀬誕2022ゲームブック・折本の作り方

はじめに

11月1日は宇宙よりも遠い場所(よりもい)に登場する小淵沢報瀬さんのお誕生日です。おめでとうございます!

報瀬誕2022を記念して、みんなで報瀬さんをお祝いする内容のゲームブック(2分冊)を作りました。2冊あわせてパラグラフ数が18のミニゲームブックですので、お気軽に遊んで頂けると幸いです。

ネットプリント配布ですので、印刷方法は11月1日のツイートのほうをご覧ください。

ソガ (@canalsphere) / Twitter

折本の作り方

ネットプリントでの印刷はA4を目安に作成しています。字が小さいと思う場合はA3で印刷してください。

こちらはいわゆる折本となっており、印刷した後、自分で本の形に仕上げていただく必要があります。糊は不要、はさみを一か所入れるだけで作れます。作り方は次のページの「全8ページの折本」の作り方を参考にしてください。

www.kinkos.co.jp

上のページでは、表紙を①番として、折り方が説明されています。今回のゲームブックでの表紙位置の番号も下の写真に示しましたので参考にしてください。

《館林編》

表紙にはみんなのイラストがあります。

ページの間に点線が印刷されていますが、ページ区切りの参考のためであって実際に折る線からはズレていることがあります。点線ときっちり合っているかはあまり気にせず、紙の端と端がぴったり合うよう折り紙みたいにして折ってください。

《東京編》

表紙にはライオンのイラストがあります。

 

折り方の参考写真もそれぞれ載せておきますね。

下の写真のようにはさみを入れます。

このようにたたんでください。

 

東京編も同じです。

表紙から左開きとなるように仕上げてください。

折本というのはあまりきれいに折れる仕様ではないので、少々うまくゆかないところは気にしないでください。

では、これで完成です。

もしよろしければツイッターのほうでご感想と、最初にたどり着いたエンドの記号(AからEまであります)を教えていただけると嬉しいです。

 

ではでは。

 

 

雨を告げる漂流団地

幼稚園から小学校にかけてのことを、間取りまで思い出してみましょう。自宅のなか、県営プールのなか、学校のなか、本屋さん、いつもの中華料理屋さん、すぐなくなったほうの中華料理屋さん。それらをつなぐ道、思い出せなくて途切れる道。連続した空間としてある町は、どうして町全体でなくそうした部分部分だけがはっきり浮かぶようなのでしょうか。

幼いころ最後の引っ越しをした家は、間取りも覚えていません。母が言うにはふたりで歩いた田んぼの小道があって、だけどわたしの記憶にはそれもなくて。記憶がよいとか悪いとか、結局のところ毎日のように薄れてゆく全てのうち、それぞれがかろうじて覚えていると思えるビジョンは重なることがなく、また、まれに重なるのでしょう。

「雨を告げる漂流団地」の冒頭、ふたりが歩いた団地の小道は、はたして誰の記憶だったでしょうか。しかし、海を漂流する団地はもう1階から外へつづく小道を失ってぷかぷか漂ってゆきます。空間としてじっさいあったはずの接続をうしなって、ただ時々はっきりと浮かんでいる団地や町の建物。ふたりが記憶する団地だけの間取りには、ときどきまた誰かの記憶が漂って寄せてくるようでした。が、それらは本人にしか判らないことです。

観覧車のひとがそんな風にすっと出てくるところが好きでした。

 

まぼろしの小さい犬

小さい犬の描かれた表紙を見て、果たしてこれはある一匹の犬をいろんな具合でたくさん描いたものなのか、いやもしかすると、なにかそうではないことを描いていて、まぼろしの犬は一匹どころかどんどん増えてゆくようなお話なのではないか(なんせまぼろしですから)などと、読む前には考えていたのでした。

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絵というのはいろんな風にできるので、ひとつの絵と思しき中にひとりが複数いてもよいしそうでなくてもよいですね。ただ、そもそもひとつの絵をひとつだと信じるわけは、たとえばこれは一つの本の一枚の表紙だからそう思えたり、背景のおうちの絵がフレームのようなもので切り取られているからそう思えるのかもしれません。ああ、フレーム、これはまぁそのフレームの話です。そういえば犬たちはちょうどおうちの絵と周りの白い部分との間、つまりフレームのうえに描かれています。もしかしてここにはひとつの「少年とおうちの絵」があって、犬たちはその絵の外側へはみ出しかけているのでしょうか。

ひとつの絵のなかに何度も同じ人物を描くとき、特にそれが時間的に異なる姿を描く場合には異時同図法と呼ばれることがあります・・とまで持ち出さずとも、単にひとつの絵のなかに一人の人物の諸相を描くということでよいなら、現代のイラストではよくある空間構成だと思います。

上の絵において人物が占めている空間の構成要素をひとつひとつ確認することはできますが、これはフレームが描かれていることとは違った感じを受けます。絵のなかの人物の周りにフレームを描いてゆくとどうなりますかね?

まあ、こういう絵、つまり漫画になるんじゃないでしょうか。

ひとつの、と数えるときにややあいまいさのあった世界に、もっとはっきりとした線が追加されたように思います。線はおよそ人物の周りを囲いましたが、別の見方をすると、同じ人が同じフレームのなかに収まらないよう外側へ追い出してしまったようでもあります。

漫画の話なのでそろそろコマと呼びましょう。コマの中では、一人の人物が同じコマのなかにたくさんいようとすると別のコマへ追い出してしまうような斥力が働いています。もしもそのまま留まろうとすれば、通常とは異なるように読ませる手がかりが必要となるでしょう。ふんばれ!とも思いますが、この斥力によって三段抜きのようなコマの突き破りも導かれているように思われます。

コマがもたらすことについて、時空間的なカプセル化というよりは人物の存在について問うてゆきますと、一つのコマに同じ人物がふたり以上いることを拒むものであって、空間に並ぶ多数のコマはその一つ一つが人物が一人の存在であることを都度確認しているという意味において、存在論的なフレームであるように思われます。

 

漫画でひとりの人物があるコマと別のコマに描かれている、つまりそのときそれらが同じ人物であるとみなせることについて、どのように受け止めればよいでしょうか。これは実際のところわたしの普段の悩みを逆転した問いかけです。

わたしが漫画を描くときにはむしろ、コマごとに絵柄が変わって同じ人物には見えにくいことをどうしたらよいもんかなぁと思っています。いつもその時の気分で絵柄を決めるような描き方をしていると、絵柄上の同一性について考える機会が多いのです。試みにこれまで描いてきたシスタープリンセスの四葉を58枚並べてみたことがあります。絵柄の上ではばらばらですが、わたしの中ではどれも一貫して四葉に違いなくて変なことでもないのです。しかし、1枚ずつの絵の場合よりも同じ漫画のコマとして並べて描くと、コマごとに絵柄が違っていることについて常よりは考えてしまいます。並べられたコマというものはどうも何かを強制してくるようです。

先ほどの漫画はコマごとの絵柄がなるべく近くなるように調整してみましたが、それにしたって(これは私に限らないことですが)ロングの絵とアップの絵では人物の相貌が変わってしまったりするものですよね。ならば、漫画でひとりの人物があるコマと別のコマに描かれていて、それらが同じ人物であるとみなせるというのはどういうことなのでしょうか。

 

判をふたつ押したのでもなければ、図像としては異なっているふたつを同じ人物だとみなすことは自明でない、というのはまずは賛成できるところです。しかし、このとき一人の人物が別々のコマに描かれているが故に、つまり同じコマにいないが故にかえって同じ人物だとみなしうるのではないでしょうか。同一性を時空間的な文脈で理解するのではなく、コマを存在論的なフレームとして捉えるということは、こうしたさかさまのような見方をもたらしてくれます。

 

漫画のコマは1つのコマに同じ人物がふたり以上いるのを拒むことによって、2つのコマに描かれた人物が同じであることを強いてくるようです。フレームとは通常、何かと何かを別のものとして区切るために用いられますが、そうすることで何かと何かが同じであることを可能にしている。フレームで区切ることによって別々のものが同じものであることを可能にしている、そういう空間構成の経験は漫画に限らずビデオゲームでよく見られるように思われます*1

 

例えば人物の絵がフレームで区切られていて、それぞれ別の意味や機能を受け持っているものの、同じ人物を示しているということがあります。上の写真はプリンセスコネクト!Re:Dive の戦闘画面で、下側にはフレームで区切られた人物の顔とステータスが表示されていて、残りの画面である背景全体を示すフレームでは、それぞれの人物の全身像がアクションを行っています。先ほどのようにコマを存在論的なフレームとして捉える場合、こちらの全身像と顔の絵のフレームがどの程度、そしてどういうわけで同一人物を示しているのかということは、漫画のコマの話と同じように議論することができるようになります。

というのも、プリコネRではぎょっとさせられることが設定画面の項目にありまして、それは同じ名前の人物を同一パーティ内に編成可能としてよいかどうか選べるというものでした。

プリコネRはこの種のゲームでよくあるように同じ人物の別バージョンが数パターンあって、それぞれ衣装と能力の異なる別のユニットとして入手できるようになっています。下の画面写真では複数のリノさんが同じパーティに組み込まれていて、画面上の左から3人がすべてリノさんとなっています。この画面のありかたが OK かどうかを自分で選べ、というのが設定の主旨だと思います。ここでは、同じ背景のフレームに同じ人物の全身像が複数あってそれらが戦闘のアクションに参加してよいかどうかが問われています*2。ゲーム上は複数組み込めたほうが都合よいですし、わたし個人的な趣味としては好きな人がたくさん同時に戦ってるほうが楽しかったりするのですが、この設定項目には同一人物が一つのフレームにふたり以上いることへの違和感が含まれていると言えるでしょう。

じゃあ一つのフレームにふたり以上いて良い場合はどんなのかっていうと、別人の場合はよいわけです。次の写真では複数の人で1つのユニットが構成されている様子がわかります。一番左の顔画像のフレームにはハツネさんとシオリさんの姉妹が仲良く収まっています。左から3番目はリトルリリカルの3人ですね。フレームは同じ人物を拒みますが、別の人物はウェルカムなのです。


人物の平面構成においてフレームが人物を収めるとき、そしてまた別のフレームも同じ人物を収めるとき、それぞれのフレームはただひとりの人物がそこに存在しているということを示し、その排他的な複数性が同一人物であることを支えているものと感じられます。

 

*1:こうしたフレーム間の人物の参照に関する話は、基本的には飯塚距離さんの議論を受けたもので、今回の話はそもそも飯塚さんの漫画のコマの話や次のようなお話へのわたしなりのとっかかりとして書いたものでした。 https://kyollapse.hatenablog.com/entry/2021/07/10/222133

*2:画面下側に複数の顔画像があることは本質的ではないはずです。というのも、背景フレームで同時にアクションしている全身像さえ1つであれば、顔画像側はたとえ複数あっても一人の人物に関する複数の状態を示しているだけとみることは比較的容易でしょう。