疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

ダンチェ・アルアルチカ

耳をすます、チューンを合わせて異国の声が届く。それを言葉と思うのは送り手がいるという信頼、音に認められる構造、あるいは。やめよう、私はこのゲームの作者を知っていて、彼のことを思わずには受け取れないから。

なにもかも話し足りないオブジェに耳をすませる。時間は言葉で埋められて、唐突に終わる。

ゲームというものが、私にたくさん話しかけてくれる機械みたいに思えることがあります。私はたとえば、床から1.5メートルの高さに置かれたディスプレイの、立ち絵の人物が話す言葉を、2.5メートルくらい離れた床の蒲団にくるまって、見上げて聞いている。そうして周波数の合った瞬間、言葉が私に流れ込んできます。

話したがりの機械と聞きたがりの私の関係は、ごめん、電話のようであってね。お喋りな彼と聞いてるだけの僕。お喋りなわたしと聞いてるだけのあなた。相手によってこれは入れ替わるのだけど。

じゃあ今日は、いや今日も、私が話をしましょう。このブログではそういう話し方しかできないのだから。私が寡黙だったらこの場所には何もない。この先の文字はない。


だけど先はあった。お喋りをはじめます。私がお喋りな機械です。童話めいたオブジェです。けして話すのが好きだなんて思わないでほしい。だけど、話し足りないみたいに話すオブジェです。


このゲームを始めたときにはもう、ゲームのひとがいきなりなにかのお話を始めてくれる嬉しさがあって、その声がですね、ゲームのひとの声というよりは、飯塚さんの声で、もっというと飯塚さんの実際の声ではなくて、飯塚さんがいつも書かれる文章を私が読むときの声で聞こえてくるのですが、そんな風に飯塚さんの文章を読めて嬉しいなぁ、という気持ちが湧き上がってくるのが冒頭の語りです。ステイチューン。

声は、まずは二つあるように思えます。ディスプレイに表示されているひとの語り。そして、エニオブジェ。エニオブジェは拾いもの。拾うとどういうエニオブジェなのか説明が挟まれます。たくさんのエニオブジェを拾ってうれしい、読んでうれしい、拾うと語りがどこでも中断されるのがうれしい。お泊まり海でどんどんエニオブジェを拾って、どんどん語りの中断されるのがうれしい。

出力ウィンドウが1つのとき、あるメッセージを表示することが別のメッセージへの割り込みになるのはどういうことなのだろう。このゲームのひとの話に、システム?が割り込んでエニオブジェについて話そうとしているの?

実世界の会話では声はパラレルに生じていい。だけどゲームの出力ウィンドウがマルチじゃなくて1つしかないとき、そこには別の世界法則があって、そこでは人物の声とシステムメッセージとが1つきりの出力ウィンドウのなかでぎこちなく譲り合っているのではないのか。そういうことを、思いました。

ゲームのひとが話し終えるのを、ゲームシステムさんが待てないことは普通にありそうです。だって、素敵なものを拾ったってこと、すぐ教えてあげたいんじゃないですかね。

果たして。

ゲームシステムさんはこの出力ウィンドウから旅立ちました。あそこは窮屈だった・・。

私がたくさん周回したのはアーリーアクセス版で、その後の完成版でエニオブジェは独立したコンテンツとしても話されるようになりました。新天地で、だけどエニオブジェたちはもう誰にも邪魔されないことをちょっと寂しく思っていたよ。

言葉はぎこちないままにゲームはよどみなく流すでしょう。よどみから言葉を拾って配置する。少しよどまなくなる。言葉をまたよどみへ落とす。拾う、落とす、拾う。拾われたエニオブジェたちと、新たによどみへ落とされた言葉たち。ゲームの版が上がるにつれ、画面にその痕は残されました。拾われた言葉のしたたりで、画面は汚されて、でもそれは模様を描くようでもあったよ。

その営みから目を閉じて、もういちど言葉に耳をすませる。

わたしは遠いラジオみたいにこの声を聞いていたい。