疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

イメージの領域

 

映画「グリッドマンユニバース」の感想です。まず六花さんが、もう高校2年生だから、と言うところが好きでして、自分たちが変わった理由として学年を持ち出す言い方にわたしはいつも胸がざわっとするので、今回もまずはそこで立ち止まりました。もう〇〇だから、っていうのは幼稚園児から高校生まで誰にでも当てはまる瞬間がありそうなフレーズでして、もう小学6年生だから、と言った次の年にはまた、もう中学生だからと言えます。ここで学年や小中高という水準が持ち出されるのは、去年の自分を振り返るためにそういう学年の節目が判りやすく思える、変わってゆく自分を毎年のように学年で測ることができるのは、毎日を通園、通学して過ごす年ごろのひとたちの特権であるような気がしています。

 

しかし中学生であることへの気負いは当事者だけのものであって、大人が新世紀中学生を名乗ることにはズレを感じます。彼ら、彼女らは世界を渡り歩いて、裕太さんたちの生きる時間の流れからも切り離されてるようにわたしには見えるのですが、ズレ、というのはそのこととも重なってるようで、ガウマさんに至っては名前すら変わってしまった、そういうマルチバースの旅人になってしまったひとたちのことを考えると、ガウマさんとの二度目の別れもやっぱ辛ぇなあと思いました。

 

とても面白い作品と自分が大好きな作品というのは別でして(というのはよくあることだとは思いますけども)、よりもいも単にとても面白い作品ではなく大好きなほうの範疇に入れてる作品になっていまして、それは自分だけがここを好き、と思い込める強度をどこかに見つけた作品、ということになります。よりもいだと第3話の結月さんの夢うつつがそれでした。それはもうこのブログとかでいっぱい書いてきたやつです。

 

SSSS.GRIDMAN がわたしにとって単にとても面白い作品ではなく自分の大好きな作品になってる理由は、最終話のラスト3カットが深々と突き刺さっているためです。以下は直後に書いた感想から。

これ友達に説明しても、そうでしたっけ・・?と言われたところなんですが、まず SSSS.GRIDMAN の OPアニメのタイトルバック、つまり、しーんりゃーくーさーれーてーるーぞー、の後にでる画は、顔を天へ向かって上げるグリッドマンのスチルでして、最終話のラストカットでもタイトルバックでアカネさんらしき人物が顔を天に向かって上げる同じシルエットで重ねてきています。そこに美しいものを見てしまったんですよね、わたしは。

 

シルエットというものは具象が落ちますので抽象が滲んでくるように思えます。シルエットと観念的なところを結びつけるのは通俗的でいやん、という方もおられると思うけど、影もわたしがむかしっから好きな要素なので熱く語るのは許してほしくて、なんか普段そういうことを思ってるとね、また今回の劇場版で見ちゃったわけですよ、影を。

 

SSSS.DYNAZENONの「インスタンス・ドミネーション」は、声に出してポーズを取りたい日本語として記憶されます。河原に立つアカネさんがこのポーズをなぞった瞬間、それがあの時のシルエットと同種のものに感じられたのでした。絵を描いてると、シルエットにはポーズが伴うよう意識してることとも関わってるのかもしれません。また、劇場版本編開始前のTRIGGERのオープニングロゴから気になっていた「瞳」の存在も影響していたかもしれません。瞳へ向けていた注意と「インスタンス・ドミネーション」の構えが重なったとき、はっとする思いがありました。

 

SSSS.GRIDMANのラストカットのシルエットも、ユニバースの河原でのインスタンス・ドミネーションの構えも、どちらも人間がイメージの領域に触れる瞬間が描かれていたのではないか、そう感じられることがわたしには嬉しかったのです。