疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

まぼろしの小さい犬

小さい犬の描かれた表紙を見て、果たしてこれはある一匹の犬をいろんな具合でたくさん描いたものなのか、いやもしかすると、なにかそうではないことを描いていて、まぼろしの犬は一匹どころかどんどん増えてゆくようなお話なのではないか(なんせまぼろしですから)などと、読む前には考えていたのでした。

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絵というのはいろんな風にできるので、ひとつの絵と思しき中にひとりが複数いてもよいしそうでなくてもよいですね。ただ、そもそもひとつの絵をひとつだと信じるわけは、たとえばこれは一つの本の一枚の表紙だからそう思えたり、背景のおうちの絵がフレームのようなもので切り取られているからそう思えるのかもしれません。ああ、フレーム、これはまぁそのフレームの話です。そういえば犬たちはちょうどおうちの絵と周りの白い部分との間、つまりフレームのうえに描かれています。もしかしてここにはひとつの「少年とおうちの絵」があって、犬たちはその絵の外側へはみ出しかけているのでしょうか。

ひとつの絵のなかに何度も同じ人物を描くとき、特にそれが時間的に異なる姿を描く場合には異時同図法と呼ばれることがあります・・とまで持ち出さずとも、単にひとつの絵のなかに一人の人物の諸相を描くということでよいなら、現代のイラストではよくある空間構成だと思います。

上の絵において人物が占めている空間の構成要素をひとつひとつ確認することはできますが、これはフレームが描かれていることとは違った感じを受けます。絵のなかの人物の周りにフレームを描いてゆくとどうなりますかね?

まあ、こういう絵、つまり漫画になるんじゃないでしょうか。

ひとつの、と数えるときにややあいまいさのあった世界に、もっとはっきりとした線が追加されたように思います。線はおよそ人物の周りを囲いましたが、別の見方をすると、同じ人が同じフレームのなかに収まらないよう外側へ追い出してしまったようでもあります。

漫画の話なのでそろそろコマと呼びましょう。コマの中では、一人の人物が同じコマのなかにたくさんいようとすると別のコマへ追い出してしまうような斥力が働いています。もしもそのまま留まろうとすれば、通常とは異なるように読ませる手がかりが必要となるでしょう。ふんばれ!とも思いますが、この斥力によって三段抜きのようなコマの突き破りも導かれているように思われます。

コマがもたらすことについて、時空間的なカプセル化というよりは人物の存在について問うてゆきますと、一つのコマに同じ人物がふたり以上いることを拒むものであって、空間に並ぶ多数のコマはその一つ一つが人物が一人の存在であることを都度確認しているという意味において、存在論的なフレームであるように思われます。

 

漫画でひとりの人物があるコマと別のコマに描かれている、つまりそのときそれらが同じ人物であるとみなせることについて、どのように受け止めればよいでしょうか。これは実際のところわたしの普段の悩みを逆転した問いかけです。

わたしが漫画を描くときにはむしろ、コマごとに絵柄が変わって同じ人物には見えにくいことをどうしたらよいもんかなぁと思っています。いつもその時の気分で絵柄を決めるような描き方をしていると、絵柄上の同一性について考える機会が多いのです。試みにこれまで描いてきたシスタープリンセスの四葉を58枚並べてみたことがあります。絵柄の上ではばらばらですが、わたしの中ではどれも一貫して四葉に違いなくて変なことでもないのです。しかし、1枚ずつの絵の場合よりも同じ漫画のコマとして並べて描くと、コマごとに絵柄が違っていることについて常よりは考えてしまいます。並べられたコマというものはどうも何かを強制してくるようです。

先ほどの漫画はコマごとの絵柄がなるべく近くなるように調整してみましたが、それにしたって(これは私に限らないことですが)ロングの絵とアップの絵では人物の相貌が変わってしまったりするものですよね。ならば、漫画でひとりの人物があるコマと別のコマに描かれていて、それらが同じ人物であるとみなせるというのはどういうことなのでしょうか。

 

判をふたつ押したのでもなければ、図像としては異なっているふたつを同じ人物だとみなすことは自明でない、というのはまずは賛成できるところです。しかし、このとき一人の人物が別々のコマに描かれているが故に、つまり同じコマにいないが故にかえって同じ人物だとみなしうるのではないでしょうか。同一性を時空間的な文脈で理解するのではなく、コマを存在論的なフレームとして捉えるということは、こうしたさかさまのような見方をもたらしてくれます。

 

漫画のコマは1つのコマに同じ人物がふたり以上いるのを拒むことによって、2つのコマに描かれた人物が同じであることを強いてくるようです。フレームとは通常、何かと何かを別のものとして区切るために用いられますが、そうすることで何かと何かが同じであることを可能にしている。フレームで区切ることによって別々のものが同じものであることを可能にしている、そういう空間構成の経験は漫画に限らずビデオゲームでよく見られるように思われます*1

 

例えば人物の絵がフレームで区切られていて、それぞれ別の意味や機能を受け持っているものの、同じ人物を示しているということがあります。上の写真はプリンセスコネクト!Re:Dive の戦闘画面で、下側にはフレームで区切られた人物の顔とステータスが表示されていて、残りの画面である背景全体を示すフレームでは、それぞれの人物の全身像がアクションを行っています。先ほどのようにコマを存在論的なフレームとして捉える場合、こちらの全身像と顔の絵のフレームがどの程度、そしてどういうわけで同一人物を示しているのかということは、漫画のコマの話と同じように議論することができるようになります。

というのも、プリコネRではぎょっとさせられることが設定画面の項目にありまして、それは同じ名前の人物を同一パーティ内に編成可能としてよいかどうか選べるというものでした。

プリコネRはこの種のゲームでよくあるように同じ人物の別バージョンが数パターンあって、それぞれ衣装と能力の異なる別のユニットとして入手できるようになっています。下の画面写真では複数のリノさんが同じパーティに組み込まれていて、画面上の左から3人がすべてリノさんとなっています。この画面のありかたが OK かどうかを自分で選べ、というのが設定の主旨だと思います。ここでは、同じ背景のフレームに同じ人物の全身像が複数あってそれらが戦闘のアクションに参加してよいかどうかが問われています*2。ゲーム上は複数組み込めたほうが都合よいですし、わたし個人的な趣味としては好きな人がたくさん同時に戦ってるほうが楽しかったりするのですが、この設定項目には同一人物が一つのフレームにふたり以上いることへの違和感が含まれていると言えるでしょう。

じゃあ一つのフレームにふたり以上いて良い場合はどんなのかっていうと、別人の場合はよいわけです。次の写真では複数の人で1つのユニットが構成されている様子がわかります。一番左の顔画像のフレームにはハツネさんとシオリさんの姉妹が仲良く収まっています。左から3番目はリトルリリカルの3人ですね。フレームは同じ人物を拒みますが、別の人物はウェルカムなのです。


人物の平面構成においてフレームが人物を収めるとき、そしてまた別のフレームも同じ人物を収めるとき、それぞれのフレームはただひとりの人物がそこに存在しているということを示し、その排他的な複数性が同一人物であることを支えているものと感じられます。

 

*1:こうしたフレーム間の人物の参照に関する話は、基本的には飯塚距離さんの議論を受けたもので、今回の話はそもそも飯塚さんの漫画のコマの話や次のようなお話へのわたしなりのとっかかりとして書いたものでした。 https://kyollapse.hatenablog.com/entry/2021/07/10/222133

*2:画面下側に複数の顔画像があることは本質的ではないはずです。というのも、背景フレームで同時にアクションしている全身像さえ1つであれば、顔画像側はたとえ複数あっても一人の人物に関する複数の状態を示しているだけとみることは比較的容易でしょう。