疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

ゲームブックの記法について

ゲームブックの表現は多様なので、一般的な様式について語ろうとすると、ああいう表現もこういう表現もあるなぁ・・と立ち止まってしまいます。ただ、そこではビデオゲームに近いことも行われているのではないか、という現代のゲーム観から素朴に導かれるだろう想像は、端的にデジタルコンピュータのアナロジーで説明することができます。

 

コンピュータという機械の基本的な動作モデルは、次のようになっています。

■ まずメモリと呼ばれる空間があって、そこには沢山の区画があり、それぞれアドレス(番号)が振られています。この区画にはそれぞれ異なる命令とデータ(オペランドと呼ばれる)が書き込まれています。

■ プログラムカウンタと呼ばれる場所には、次に実行するアドレスが記されています。

■ 制御装置は、その次に実行するアドレスの区画にある命令とデータを読み出して、命令どおりの処理を実行するよう、演算装置や入出力装置を制御します。

■ このあとは、プログラムカウンタのアドレス(番号)を1増やして、次に実行するアドレスとします。制御装置は、そこに記された次の命令とデータを読み出して、以下同じことを繰り返します。

■ ただし、命令に分岐命令があった場合、次のアドレスは1増やすのではなく任意のアドレスへのジャンプが行われます。

■ 上の命令では、レジスタと呼ばれる場所に演算結果を保存し、のちの命令によって取り出すこともできます。

プログラム内蔵方式と呼ばれるこの仕組みが実用化されたのはわりと昔なのですが(1949年)、現在に至るまでほとんどのコンピュータがこの方法で動作しています。

 

プログラム内蔵方式の実用化が人のものの見方に与えた影響は大きく、それは生活や社会のあり方に限らず表現の世界にも及んではいます。ここでゲームブックのパラグラフ制御とこうしたコンピュータのモデルを直接関連づけることはできそうですが、抜け落ちてしまう部分もたくさんあると思います。紙の冊子体という媒体は例えばページそのものを折りまげる物理表現を伴うことができます*1。制御や記憶装置と表示装置とが分かれているコンピュータとは異なり、ゲームブックはすべてが同じ紙面に含まれているが故に、どこにどういう分岐がある、といった情報を隠すのが難しい、という課題も古くから議論されています*2。ひるがえって、こうした媒体と課題に取り組むためのアイデアがゲームブックの表現に多彩な幅を与えているようです。

 

また、「ゲームシステム」と「表現」とを分けることは難しいと思うため、もうひと巡り回り道したいと思います。先のプログラム内蔵方式が実用化された頃、クロード・シャノンという研究者が表現とコンピュータの関係にも影響する重要な理論をまとめあげました。情報理論と呼ばれるその理論は社会的な一大ブームを引き起こして*3、情報という言葉を従来の「報せ」を指す一般語からコンピュータにも深く関わる言葉へと変化させました。ゲームブックという物語を表現する方法にパラグラフというコンピュータめいた仕組みが含まれていることもこの変化と無縁ではないと思われます。

 

シャノンの研究にはナイキスト、ハートレーという2人の先行者がいます。彼らは電信電話で伝達される人のメッセージから意味を切り離して、定量的に扱う方法を提唱しました。この数えることのできる「情報」がシャノン流の「情報」の意味合いであって、 現在のコンピューティング環境に囲まれた私たちにとって、情報を容易に切り貼りしたり変化させたりできるという情報「処理」の感覚も、 こうしてメッセージを定量化する見方が強く影響していると考えられます*4

 

情報という言葉がコンピュータとネットワークの発展を伴って広まる過程では、連続体として意味をなしていたものを分割して数えられるような形にすること*5、加えてそこでコンピュータが用いるような分岐や繰り返しの処理も、私たちのなかで所与のものとして内面化されていったのではないかと思われます。

 

情報理論では従来は人の表現に関わる領域だったメッセージを数学的に捉える観点を示し、コンピュータで扱える形にしたことが画期的と見られました。シャノンはいったんメッセージから意味を切り離すことでこれを達成しましたが、その後、コンピュータは能力向上とともに取り扱える情報の幅が広がって、コンピュータが意味を理解できるかはさておき、私たちのなんでもない暮らしともSNSやビデオゲームを介して融け合うものとなりました。そうしたなかで、ゲームをゲームシステムと表現の2つに分かちがたいと思えることは、表現者も私たちもコンピュータの仕組みとシャノン以降の情報のあり方を当たり前のように使いこなしている背景があるのではないでしょうか。

 

さて、コンピュータの話とシャノンの話で2度の回り道をしました。この話の終着点を確認しておくと、ゲームブックの記法において、人が普通に読める文章や記号で記述されていることと、たくさんの断片に区切られていることのおもしろさを言葉にしてゆきたいと思います。

 

プログラム内蔵方式に至る思想や歴史はほかでたくさん議論されていますが、私にとってのゲームブックの魅力に触れるには方向が違うようです。コンピュータは後の文学への影響もあって、これは時々触れるかもしれません。人にとって繰り返しという構造を記述することは、古くから声明の記録や楽譜において行われ、後には戯曲でも見られました。こうしたことは私をわくわくさせます。文章をたくさんの断片に区切って手繰ることは、カードと呼ばれる媒体から短冊、冊子体、またその番号の振り方、手繰り方という話題があって、底の見えない感じが強いです。わたしの好きなゲームブックや、これらと話題を同じくするビデオゲームのことも採り上げながら、以上のようなことを綴ってゆきたいと思います。

 

 

不定期に続きます。

 

*1:フーゴ・ハル「迷宮キングダムブックゲーム モービィ・リップからの脱出」2010年

*2:門倉直人「ゲームブックシステム講座(1)~パラグラフのジレンマ~」ウォーロック 1986年12月01号

*3:日本では1960年代の情報産業論、情報化社会など

*4:メッセージの定量化と情報理論との関わりについては、ジェイムズ・グリック「インフォメーション 情報技術の人類史」が詳しいです。

*5:ここは「デジタル化」と安易に言い換えないようにしてほしいと思います。