疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

僕の手はこびとの定め

ゲームの駒がおよそ同じ大きさなのは、どういうことだと思う?

まぁ、僕らの体のサイズがそれを決めてるって、僕はいつもいうけど。

 

生命のいなくなった星を想像するみたいに、駒のいなくなったボードを想像してみてください。彼らの残した遺跡があるでしょう。そこには巨人が暮らしていたのか、小人が暮らしていたのか、二足歩行だか三足歩行だか四足歩行だか、そもそも足はないとか・・。

 

アニメ雑誌の付録に、すごろくが付いてくるのですよ。こういうやつ。だけど、駒は付いてこないのよね。彼らの暮らす地図だけが、足跡?いや、かれらの置かれるべき円だけが残されている。いったい、これはただ眺めるだけじゃなくて、ここに何かが置かれるものと期待されているのか。仮に、期待されているとしてね。

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僕らの暮らしのなかで、10円玉みたいなトークンや消しゴムやら、クリップやら、なんでも、僕らの体が、指が、ちょうど取り扱えるサイズの小さなものたちがあって、たとえばそういうものたちがこの場所に置かれるよう、期待されているとしてね。

 

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僕はそこにたまたま以前から作っていた小さなものたちを置いてみたのだけど、やっぱりそれはちょうどいい大きさのようで、だけどそれは偶然じゃない。僕の手は僕の手が扱うときにちょうど愛しいようなサイズのものを作るのだから。そして、その大きさの感覚は、だいたい僕と同じくらいのサイズの、僕と同じくらいの大きさの手をもった生き物にとって、そういう風に思えるものなのではないか。

 

駒の付属しないすごろくは、そういう愛しい小人たちが存在することを当たり前のものとして想像する。あなたの机にも鉛筆で小さな円を描いてごらん。それは、小人の存在を証明するからさ。