疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

ひらがな一文字を傾聴すること

宇宙よりも遠い場所 第10話「パーシャル友情」。友達っていったい何なのか、友達という言葉をめぐるお話です。第10話の言葉についていろいろ反芻してると、キマリさんが天井に張り付いてた絵面が不意に思い出されて、可笑しくなりました。なんだあれ、ってなるな。なんだそれ、ってなるよな。

結月「何してるんです!?」

キマリ「クリスマスだから!」

不可解です。不可解な説明が選ばれた、と言い換えても構いません。サンタだからびっくりさせようとして、とか言いようはあるのですが、キマリさんの口をついて出てきた言葉は「クリスマスだから!」。この場面において、行動が不可解であることと言葉がそこから遊離する様は、友達に対して抱きついてしまうキマリさんと、しかしその友達という言葉がいま置かれている境遇に近しいといって差し支えないでしょう。

友達は、不可解のまま実施されます。

キマリさんが結月さんを抱きしめること、不可解な登場をすること、みなが集ってお祝いをすること、そんな風に対面で行動をする積み重ねによって、結月さんにとっての友達という言葉の器は満たされてゆきました。しかし、友達とは何か、という問いを正面から言葉で打ち返したのは、最後のキマリさんでした。

第10話における彼女らの行動や会話と比べれば、最後のメッセンジャー(RINE)によるやりとりは、対面でもなければ声でもない、離れた場所から送られてきたメッセージで、だいぶ書き言葉のほうに寄った出来事です。さて、友達って何なのか、言葉で説明することに窮していた第10話において、言葉で紐解いてゆける格好の機会がキマリさんに用意されました。いつもみたいに結月さんのこと抱きしめにゆく訳にはいきませんからね。

《ありがと》

《ね》

「ーーーわかった!」

「ん?」

「友達ってたぶんひらがな一文字だ!」

結月さんが何度も打ち直した末に送信されたそれは《ありがとね》ではありませんでした。そうした文末の《ね》ではなく、単独で現れる《ね》でもなく、《ありがと》に続いて文末に現れるべき《ね》が切り離されて生まれた、その呼吸をキマリさんが掴もうとすること。それって友達というかたぶん、相手を人間だと思って傾聴するってそういうことなんだろうなと思えて、私はこの場面を見たときに、震えて、変な声が出ました。

向こう側にいる相手について思い巡らせることは既にめぐっちゃんとのチャットでの会話で示されていたことですが、この「わかった!」においてそれは会話よりもっと小さな言葉の息遣いに集約されます。《ありがとね》ではなく《ありがと》《ね》という風に言葉を使用すること、それは一体どういうことなのかと、しっかり耳を傾けること。

私はそんなに人の言葉を丁寧に聞いてないなと思ったのと、しかしそういう事ができる人間がいるっていう、おおきな善なるものに撃たれた。

小さな言葉の使用の差異、それはときにひらがな一文字として立ち現れるでしょう。ひらがな一文字そのものはあまり意味を帯びないだけに、それは使用の文脈に左右される。そしてそれを傾聴すること。それが友達。

《ありがと》

《ね》

     《ね》

《ね》

《ね》は同意を伴いがちな言葉だけに、以降は《ね》を繋げて友達の間での同質さを確認するようなやりとりにも展開されてはゆくのですが、キマリさんが「わかった!」と言ってるのはそこではないです。《ね》はあくまで《ありがと》から切り離された《ね》で、そんな風に使用された《ね》の在り方を傾聴することがキマリさんの「わかった!」であり、「友達ってたぶんひらがな一文字」なのだと思います。

 

なお、ブルーレイ第4巻のスタッフインタビューブックレット(キマリの取材メモ)によると、花田さんが書いた第10話脚本を見た後にいしづか監督が第3話へ手を加えたことが明らかにされています。

いしづか 3話のファミレスでの「ねー」もそうです。コンテを書いているときに、ちょうど10話のシナリオがあがってきたので読んでみたら、オチに「ね」があったので、3話のコンテにすぐ足しました。あの場の空気にすごくマッチしていましたし、どちらも結月の話だったというのもあります。タイミングがよかったですね。

私は、第10話の「友達ってたぶんひらがな一文字」であることと第3話とは関係がないものと思います。一方、第3話にも第10話にも見られる《ね》を連鎖するやりとりは友達同士でよくやりそうなことではあって、その《ね》は、相手を抱きしめたり、誕生日をお祝いしたりするのと同じなんだと思います。

だけど、キマリさんが「わかった!」のは、結月さんが何度も逡巡したのちに入力したあの《ありがと》の言葉と、そこから間を空けて入力された《ね》の背景になにかが見えたからであって、《ね》を繋げる行為とは別です。結月さんの迷いは直接キマリさんのほうでは見えてないわけですが、それでもそのことは《ありがと》というこれまで結月さんが使わなかったであろうくだけた言い方と、間を空けて入力された《ね》のうちになんとなく感じられたのでしょう。そして、そういうことが出来るキマリさんの人間と向き合う態度のことを、私はとても貴いものと思います。

 

 

2019年4月21日  疏水太郎