疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

結月さんと、絵柄のルーツ

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よりもい×極地研コラボイベントで白石結月さんを撮ってきた写真があまりに可愛いかったので、まだあまり見てない第4話を見直して、結月さんの可愛いやつをばしばし撮る作業をして終わったところです。

結月さんの編み込みを数えてるうちに、お出かけのときいつもは左に1つだけある編み込みが、第4話のキャンプでは左右2つに増えていることが判りました。おでこを両側から引き締め、後ろのしっぽへぎゅっとまとまり、うなじの傍をジャケットへ流れ込む髪のラインがたいへん可愛いのですよ。

お風呂で髪を解くのか、第3話のパジャマのときや部屋着のジャージのときは編み込みが消えてます。第4話の合宿ではこのジャージが初登場、以降、船内や基地内の部屋着となっています。

キャンプでは洗髪しませんので、髪を解かずに寝る、というこれまたレアな様子を見ることができます。第4話の結月さんも最高でしたね。変顔もありますし。

 

描いていて、この目が大きくて線のしっかりした感じを以前にも描いたように思えて、ああ、そうそう、GJ部の天使恵さんの時だったと思い出したのでした。

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原作の挿絵あるやさんの可憐でぱっちりとした絵柄から、アニメでは大島美和さんが大胆な表情を描き出しておられて、とても好きです。(天使恵さん、意外におもしろいお顔が多いのですよ。)

大島さんも、よりもいの吉松さんも同じスタジオ・ライブで、個人的には芦田さんに始まって、表情の大胆さが記憶に残ってるのは偶々なのかも知れないけれど。ワタル、グランゾート、サイバー・・、ってあの頃に見ていた絵のこと。自分の絵を設定画のほうへ寄せて描こうとしてみると、自分の絵ではないけれど自分の辿ってきた記憶にあらためて触れることもあります。

 

 「宇宙よりも遠い場所」×国立極地研究所 コラボイベント|立川観光協会

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 楽しかった。

 

2018年3月31日 疏水太郎

 

桜より少し前の季節に

小鳥桃葉の話をしたい。おどりももは、と読んでほしい。

アニメ《がくえんゆーとぴあ まなびストレート!》の放送10周年が記念され、dアニメストアでの配信が始まった。*1 放送当時には6話までしか見てなかったので桃葉のことはあまり判らなかったが、この機会に最後まで見ていっぺんに好きになった。

1.生徒会室の居候

高校の生徒会が舞台の作品で、まずは役員でないメンバーが割と部屋に居着いてるところが良かった。生徒会長のまなび、書記のみかん、はじめの役員はこのふたりだけで、助っ人で来ているむっちー、出入りするうち途中で役員になっためぇ、そして報道部だけどなぜかよく居る桃葉、生徒会室のメンバーはこの5名である。

こうした構図は第2話であっという間に築かれている。ムービーカメラを手に生徒会室へついてきた桃葉は、既にこの部屋のメンバーみたいに思われている。部屋のリフォームを取材する桃葉に対してはこうだ。

めぇ「ちょっと、あなたも手伝いなさいよ!」

桃葉「わたしは、生徒会役員じゃないしー」

めぇ「わたしだってそうよ!」

桃葉「じゃあ、なんで手伝ってるんですか?」

めぇ「べ、べつにいいでしょ」

 役員でもないのにペンキ塗ってるめぇも良いし、めぇが桃葉のことを既に数に入れてるのも良い。なんで手伝ってるかなんて知るか。同じ部屋を何度も訪れたことそれ自体が理由だ。めぇも、桃葉、あなたもそうでしょうよ。

それにしたって、桃葉は生徒会の仕事をしない。役員でなくとも仕事はしているむっちーやめぇとは違うのだ。桃葉は彼女らが仕事をしてる横で何もしてないか、別のことをしているかである。あまりに生徒会みたいな顔してそこに居るから気づかなかったが、もしやと思ってシリーズを初めから確認したら、メンバーと一緒に部屋にいたり一緒にどこかへ行くことはあっても生徒会の仕事はやらない。生徒会室から見れば桃葉は居候といってもよい。

 生徒会室の鷹揚さについては、第2話の上の続きでまなびが語っていることだろう。

まなび「たまり場、たまり場を作りたかったんです」

まなび「ここは、この学園が大好きだったら、誰でも大歓迎なカフェです。生徒会役員じゃなくてもオッケーです。」

 生徒が生徒会室を訪れる様子は後に少し描かれるが、このたまり場へやってくる生徒の代表格が桃葉であった。

 

2.三杯目には sotto voce

第6話までの彼女らは、生徒会室という場所に、またお互いに受容されていった。その一方で、第7話の前半では生徒会室メンバーがみな桃葉へ素っ気ない対応をする場面が描かれていて少々きつい。夏休みの終わりで生徒会の仕事が切羽詰まってるときに、桃葉が関係ない話を振ってくるからではあるが、それまでの様子との落差は感じた。第10話で桃葉からの手のひらタッチをめぇがスルーするのもなかなかきつい。ギャグ風味ではあるのだが。

 この温度差を見て、桃葉はなんでこの生徒会室に出入りしてるんだったっけな、ということを改めて考えたのだ。みんなからの温かい反応を期待してるから、というよりもっと、まなびがなんか面白そうに思えたから、という第1話、第2話あたりで彼女が得たであろう直感、その自分が面白いと思える気持ちにずっと忠実で、メンバーからそっけなくされても、まぁそれは二番目くらいになる問題で。

しかし、そういう一方的な好意は、まぶしいものではないだろうか。

第9話で桃葉が映像ジャックしたことは、結果として生徒会室のメンバーを動かすが、先生に取り押さえられた桃葉がその後みんなに感謝された様子も描かれないのは美点だったのではないか。じっさいメンバーが感謝してないということではなく、そうした様子を描写することが桃葉にとって余分で。

桃葉が面白いと思って好意を抱いた気持ちの集成が、ライブステージへまなびを押し上げたこと、花火、そして、彼女のフィルムであった。

 

 3.居候≒ナカマということ

居候とは私が勝手に呼んだ言葉であるが、作中には《トモダチからナカマへ》という標語があるため、そちらに沿うかたちでも話しておきたい。《トモダチからナカマへ》はみかんとめぇが考えた学園祭の標語である。作中でのナカマが何を指すかは、ほぼ第10話が答えといって良いだろう。第10話の題は《集う仲間たち》であり、集った生徒たちがどういう様子だったかといえば、みんなで一緒に何かをやった、そのことが良かったのだった。

めぇ「みんなでやる学園祭は楽しいに決まってる、か」 

 この、みんなでやる、とは何かをもう少し掘り下げると、

めぇ「ナカマと何かをすることの楽しさを知ったから」 

 でして。何かを一緒にするとき、その相手をナカマと呼ぶことができる。じゃ、トモダチってなんなのよ?

 《トモダチからナカマへ》であるから、トモダチは何かを一緒にはしないのね。トモダチって言える関係と、一緒に何かするっていう行為を彼女らは分けて捉えているのである。

桃葉って彼女らのトモダチなんすかね、ナカマなんすかね?

同じ生徒会の役員ならトモダチくらいは言っても良さそうだけど違うし。他のメンバー同士みたいにふたりだけで手を繋いだり、抱きついたりってのもしてない。トモダチって呼んでもいいだろうけど、他のメンバーと違ってる独特の関係を何かここで言い表せないだろうか。

 

だけど、そうよ、ナカマはわりと近いんじゃないかな。確かに生徒会の仕事はしてなかったけど、一緒になんかはしてて、新生徒会室の掃除のときも彼女だけ肝試しやってたけど、ああいうのはもう一緒になんかしてたといってもいいんじゃないか。関係は不明、作中で桃葉の肩書きは《謎》と書かれていた。だけど、行為だけはあった、ということ。トモダチとはすっきり言えないかもしれないけど、ナカマとは言えそうで、そうすると桃葉はナカマの代表格としてシリーズを通してそこに居てくれたんじゃないか。別のことをしてたって一緒に何かをしていることは出来る、という極端なその行為のあらわれとして、さ。

最終回ではおさらいみたいにもう一度、彼女の立場が確認される。

むっちー「えっ、うち? ていうか、正式な役員じゃないんですけど」

桃葉「気にしない気にしない」

めぇ「そういう小鳥さんも、正式な役員じゃないし」

桃葉「気にしない気にしない」

桜舞う卒業式の日に、もう一度、何を確認したのだろうか。桜の花はこの作品のモチーフとして繰り返し用いられてきた。ここでは桜の意味は問わない。むしろ、3月3日、桃の節句に生まれた桃葉のことを思おう。桜より少し前の季節に桜みたいに咲く桃花の、近いようで遠い色に触れよう。

友達より少し後ろでカメラを回す彼女のことを話そう。

 

(2018年3月25日 疏水太郎)

 

送り出される声について

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《劇場版 響け!ユーフォニアム》はおよそテレビシリーズ版の再編集ですが、声をぜんぶ録り直したり新しいカットもあるということなのでむむむと集中して観てきました。帰宅してからお風呂に入ったりしてぼーっとしてるうちに黄前さんの声や作品中の音について改めて思うことがあったのは、劇場版に刺激されたからかもしれないし、テレビシリーズから1年が過ぎて少し距離を置くことができたからかもしれません。

わたしは黄前さんの声の様子に引き込まれて、テレビシリーズ第1話の冒頭をなんども繰り返し見たものでした。ここでは吹奏楽コンクールの場内がざわめくなか、黄前久美子さんのつぶやきだけが漏れ聞こえてきます。ひとりごとだった声のそのまま続きであるみたいに、次の声は彼女の隣にいる少女へと向けられます。ひとりの声は黄前さんと高坂麗奈さんひとりずつの声になって、そこで黄前さんがまたひとりごとのように漏らした声から、ふたりの会話が始まるのです。

黄前「本気で全国行けると思ってたの」

高坂「あんたは悔しくないわけ」

話の筋としてはこの会話が黄前さんと高坂さんのふたりを引き寄せ合ってゆくのですが、わたしはここで黄前さんがひとりごと以上会話未満で声を送り出してゆく様子が神秘的に思えて、強く惹かれたのでした。

 

今日になって思ったことは、黄前さんの声がこんな風にわたしに飛び込んで来たのは吹奏楽コンクールの結果発表があったことと、その発表を受けて場内がざわめいていたからじゃないかということです。それはぜんぶ、第1話の冒頭で黄前さんが声を発する前に起こったことです。はじめ黄前さんは同じ部の佐々木さんと一緒に結果発表を待っていて、佐々木さんが黄前さんに話しかけています。そして結果発表のあと佐々木さんは席を立って黄前さんだけが残されます。しかし、それまでふたりで居て、周りの人のざわめきにも満たされていたなか、不意に人の声が消えて静かな劇伴へと切り替わります。ひとり残された黄前さんの「金だ……」というつぶやきが送り出されたときにはもう、周りの人、周りの声から切り離された黄前さんだけの時間が始まっているのです。心のなかが漏れてくるみたいなひとりごとの時間のなかで、周りの声を遮断した劇伴のままに、高坂さんへ向けて声が送り出されてゆくのを聞くたびにわたしの胸が震えます。

ひとりになって、周りの声も聞こえてこないのに、隣で高坂さんが泣いてる声だけが聞こえてくるんですよ。

黄前「高坂さん、泣くほど嬉しかったんだ」

これはまだひとりごと。だけどこのあとすぐ高坂さんへ視線を向けての

黄前「良かったね、金賞で」

って、ひとりごとの続きのままで、隣のひとに声が送り出されるのですよ。

高坂「くやしい、くやしくって死にそう。なんでみんなダメ金なんかで喜べるの、わたしら全国目指してたんじゃないの」

それを受けた高坂さんの声も、くやしい、って自分の気持ちが誰に向けるでもなくそのまま口に出てるのと、《みんな》《わたしら》のことを言ってて、直接黄前さんへの返事でないように聞こえます。そのあとようやく

黄前「本気で全国行けると思ってたの」

高坂「あんたは悔しくないわけ」

ここで《あんた》が出てきてついに黄前さんと高坂さんの会話になったように思えるのです。

だからね、周りから切り離されたひとりの声がすこしずつスライドして、繋がって、会話になる。その会話になるまでのところで、ひとりのはずが隣に人がいて、どうしてそちらへも声が送り出されてゆくのか、そういうことがとても不思議で、魅力的なのです。

 

【誰がきいてるかなんて知らない】

思えば黄前さんと高坂さんというのは、周りの声なんて知らない、ふたりだけが声を交わしてる時間がこのコンクールの日にあったのですね。県祭りの夜、大吉山でふたりだけで演奏したことはその再演だったと言えるでしょう。

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私が大吉山へ登ったのは昼間のことでした。JR奈良線が宇治川橋梁を渡る音がこの大吉山展望台まで聴こえてきました。あの夜、県祭りの喧騒は大吉山まで届いたでしょうか。あるいは、ふたりの演奏は地上の県祭りまで届いたでしょうか。

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そういえば、高坂さんが学校脇の高台でドヴォルザーク「新世界より」を吹いていたとき、それは黄前さんが聞いていました。だけどあのとき高坂さんはべつに黄前さんに聞かせようと思っていたわけじゃなくて、自分が吹きたいから、ただ自分の時間のなかでひとり吹いていたのだと思います。

そうして、県祭りの夜のことをもう一度、思い出したいのです。あの夜はみんな周りのことなんかよりも大切な自分や自分たちのために過ごそうとしてたと思うんですよね。三年生組、二年生組、加藤さん、川島さん姉妹、長瀬さんと後藤さん、そして高坂さんと黄前さん。展望台からの演奏が仮に誰かに届いたとして、誰が聞いてるかなんて知らなくって、ふたりで吹きたかったから吹いた。

ただ、かつて黄前さんが聞いたように、わたしのところにもそれが運良く聞こえてきたということなのでした。

誰がなんと言おうと知らないって風に黄前さんが高坂さんのオーディションを支持するとき、大吉山でのふたりの演奏が思い出されるのです。あのとき、黄前さんのところに高坂さんの音が聞こえてくるんじゃなくて、黄前さんは高坂さんの隣で音を送り出していて、そうしていると周囲の音は静かになっていって、ひとりみたいなふたりみたいな時間が生まれて、ほかの誰のことも関係ないよって気持ちになるんじゃないでしょうか。

 

天球儀植物園へ

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【まえがき】

 サクラノ詩、という作品についてはあまり言葉にならないです。答えは自分の暮らしの中に織り込んでゆこうと思いました。

 ただ、それでも、暮らしというよりは私自身の天体嗜好症に引き寄せて、かつて空想していたことと響き合ったり、新たに発見した美しいことがありました。だから、サクラノ詩が天体を参照する際に私が感じたきらきらをどうにかこうにかここに並べてゆきます。

 

【星めぐりのハンドル】

 冬の夜空に見えるのは冬の星座ですが、深夜を過ぎると東の空から春の星座が昇ってきます。冬の花は冬に、春の花は春にしか咲かないけれど、天の星座は一日のうちに季節の移ろうことを、夜更かしのあなたは知っています。

 星と花の季節の巡りを魔法として備えたのが天球儀植物園でした。これは私が20年くらい前に空想した施設で、ずっと考えているうちにいろんな形をとりましたが、そこには星と星を回す機械があって、それが巨大な温室に収められているという点は共通していました。

 1995年の覚え書きによると、天球儀植物園はとある王国の万国博覧会にあって、少年たちが夜な夜な遊び回って互いにキスなどしていた場所のようです。少年時代の好きとか嫌いっていうのは瞬間的に激しく、また曖昧にうつろうものだったように思われました。心底憎んだ人とでも翌日にはじゃれあっていたり、月の単位で変わってゆく仲良しの関係、昔の仲良しとはほとんど口もきかなくなったことに戸惑いを覚えたり。そんな子供同士の関係の不思議についてあなたに伝えたいと思っていました(1995年11月5日)。

 1997年の覚え書きによると、舞台は大阪の鶴見緑地にある花の万博(EXPO'90)跡地でした。万博跡地には咲くやこの花館という名の大温室が今も残されています。私の想像によるとこの温室の中心にはプラネタリウムの投影機のような機械があって、夜になると天井のガラスに夜空が投影されます。あなたは鶴見緑地に生まれた子供たちで、この機械の秘密をさぐるために夜の温室へ忍び込んだのでした(1997年10月5日)。

 また、同じ頃にこのようなメモもありました。それはジュール・ヴェルヌの小説に憧れて冒険写真家になった女性の話でした。彼女が最後に撮った故郷の大温室の写真は水晶宮と題されていました。彼女が眠るとき、その夢は少年の姿となって、かつてのロンドン万国博覧会を映し出す温室のなかを駆け回ります。そしてあなたは温室に出るという幽霊を取材するうちに、この写真家の夢に触れたのでした。

 1998年の天球儀植物園は、半円球のガラスを天蓋に持つ植物園でした。中央に置かれた星光投影機のハンドルを回すと、植物園の草木の四季を巡らせることができて、春の花から夏の花、夏から秋、秋から冬へ、たちどころに変化してゆきます。それはまるで浦島太郎に出てくる四季の部屋のようでした。竜宮城にあるその部屋から東西南北を見渡すと、草木の四季がひと巡りするのだといいます。この星めぐりのハンドルにも四方四季の魔法が掛けられていたというのでしょうか(1998年1月10日)。

 

【天球儀の鏡像】

 夜空が背景の絵として描かれるとき、特定の意図がない限りは星を表す点描がそれっぽく並ぶだけで、実際の星空のままに描かれることは珍しいものです。私は人がどういうつもりで星空を描くのか興味があって、星空の絵を見る時はいつも実際の星空との一致を確認することにしています。

 だから、サクラノ詩のZYPRESSENの話では、糸杉の夜空に実際の冬の星が描かれているとすぐに判りました。だけど、何かが強烈におかしいのです。3秒ほど経って、そこに描かれたオリオンとおうし座の星図が左右反転していることに気が付いて怖くなりました。単に夜空が鏡像になっているというだけでも怖いのですが、そこから想像を進めると、まるで私たちの見る天球をその外側から覗き込んでる誰かがいるような、そんな気にもさせられるのでした。

 鏡像の夜空は天球儀に描かれます。天球儀において、私たちが立つ地球は天球儀の中心にあります。であれば天球儀の表面に描かれる星座は私たちが見る星座の鏡像で描かれていることもすぐ了解いただけるものと思います。こうした天球儀と学者を描いた絵がいくつも知られており、かつて天球儀を手にする人は世界の外側に立つような知を得たと思えたのでしょうか。2015年のルーブル美術館展@国立新ではフェルメールの《天文学者》を見ることができました(The Astronomer (Vermeer) - Wikipedia, the free encyclopedia)。2016年のボッティチェリ展@東京都美術館では《書斎の聖アウグスティヌス》(Saint Augustine in His Study (Botticelli, Ognissanti) - Wikipedia, the free encyclopedia)を見てきました。そんな天球儀はPicaPicaのエンディングムービーにも描かれています。絵のなかの天球儀というのは象徴的な意図を持って描かれてきたようですが、PicaPicaのそれはどちらかといえば天体に関する美しいものの一つとして置かれたように私は思いました。そう思えるくらいに、サクラノ詩において天体が参照されることは特別ではなくありふれているのです。

 なお、後の章では反転していないオリオンとおうしも描かれますので、ZYPRESSENにおける反転は偶然や手違いではないでしょう。ともかく恐怖を煽られるのですが、それはZYPRESSENにおける氷川里奈の差し迫った様子に寄り添う感じがありました。

 

【プラネタリウムの季節】

 ドーム状の建物といえばなにを連想しますか? 私にとってそれはプラネタリウムであり、また植物園の温室でもあり、そうした想像から天球儀植物園というものが生まれました。

 氷川里奈と草薙直哉は夜の公園のドームの内側に糸杉の絵を描いてゆきました。最後に直哉が描き加えた明るい色は星と見紛うものでしたが、それはわざわざ否定されています。

《「ああ、星じゃない。ここに描かれているのは全部、桜の花びらだ」》

 直哉は星の日周運動を吸い込んで、木々の季節を巡らせます。これこそが櫻の芸術家の真骨頂でした。私はZYPRESSENより前にもうPicaPicaを読んだときに同じことを感じていて、同じものをZYPRESSENでもまた見たように思いました。それは、PicaPicaのエンディングムービーにおいて天体に寄せて描かれていたことでした。

 月には桂の木が生えているという伝説があります。この話を聞いて以来、私は桂の木を特別なものと思うようになりました。かつて私の書いた桜という名の少女の弟は桂という名でした。そのとき既に桂は他界していました。私は桂を美しく悲しく偲ぶ対象のように思っていたのかもしれません。一方、PicaPicaのエンディングムービーでは最後に月から桜の木が力強く伸びていました。その絵に出会ったとき、私のなかにあった桂の木は櫻の芸術家によって見事に描き変えられてしまったのでした。

 どういうわけか、サクラノ詩と私にはそうした縁があるのです。

 

【圭の昇天】

 戯曲シラノ・ド・ベルジュラックは素晴らしき日々で幾度も引用されていましたが、サクラノ詩でもまた私はシラノを感じました。シラノというのは17世紀の実在の人物で、彼を題にとった戯曲がエドモン・ロスタンのシラノ・ド・ベルジュラックとなります。サクラノ詩においてこのシラノを感じさせるのは、PicaPicaにおける月の存在です。月といえばシラノは月世界旅行記という著作を残しており、これがロスタンの戯曲でも参照されて、舞台の名場面のひとつとなっています。

 ここではまず、シラノが地上から月へ昇るために発明した七つの方法のいくつかをご紹介しましょう。

《弓張月の幼くて、乳を求めて育つ時、牛の髄気を身に塗れば、月の世界に吸い上げらりょう!》

《さてどん尻のからくりは、ゆらりと乗った鉄の板、投げる磁石は空へ行く!此奴ァ妙計、鉄板が磁石の跡を追っかける。投げりゃ追い著く、追い著きゃ投げる。投げりゃ追い著く、追い著きゃ投げる。投げりゃ追い著く…… 素敵だぞ! 昇るわ昇るわ際限ねぇ!……》(シラノ・ド・ベルジュラック、辰野隆・鈴木信太郎訳より)

 この調子でシラノは荒唐無稽な法螺を七つ、マシンガンのようにしゃべり続けることでド・ギッシュという男を計略にかけます。シラノはド・ギッシュをどうにか十五分間、足止めする必要があったのでした。それはそうとして、この月へ昇るための荒唐無稽な七つの方法、これにはなんだか覚えがないでしょうかね?

 素晴らしき日々の It’s my own Invention では、死すべき日の前夜に卓司と希実香がおかしな理屈で月へと昇ってゆきました。

《希実香「そんな少女趣味な事言いませんよっ。あのですね。ここの屋上を天まで届けてくださいっ」

 卓司「屋上を天まで?」

 希実香「はいっ。C棟は4階建てです。今私達はその屋上……五階部分に立ってますっ」

 卓司「ああ、立っているねぇ……」

 希実香「こいつを一階ずつ拡張してゆくのですっっ」》

 なるほど、足元を一階ずつ拡張してゆけば、いつか月にも天にも届きますね!

 この後、希実香が特殊警棒で屋上の柵を叩き折る音が、ふたりの足元を一階ずつ高くしてゆくのでした。

《希実香が物質を音に!

 ボクが音を物質に変えてゆく。

 空に伸びてゆくボクたちの屋上。

 どんどんどんどん伸びてゆく。》

 あのシラノが語った月世界の法螺も荒唐無稽だけど魅力的でした。ありえないものを目指すときの人の精神というのはどこか美しさを帯びるものなのでしょうか。

 

 梶井基次郎のKの昇天でも、シラノの月へゆく方法に触れつつ、また別の方法が紹介されていました。人それぞれに月を目指すためのありえない方法があるのです。

《影ほど不思議なものはないとK君は言いました。君もやってみれば、必ず経験するだろう。影をじーっと視凝めておると、そのなかにだんだん生物の相があらわれて来る。ほかでもない自分自身の姿なのだが。それは電燈の光線のようなものでは駄目だ。月の光が一番いい。》

《自分の姿が見えて来る。不思議はそればかりではない。だんだん姿があらわれて来るに随って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれてこちらの自分はだんだん気持が杳かになって、ある瞬間から月へ向かって、スースーッと昇って行く。それは気持で何物とも言えませんが、まあ魂とでも言うのでしょう。それが月から射し下ろして来る光線を溯って、それはなんとも言えぬ気持で、昇天してゆくのです。
 K君はここを話すとき、その瞳はじっと私の瞳に魅り非常に緊張した様子でした。そしてそこで何かを思いついたように、微笑でもってその緊張を弛めました。
「シラノが月へ行く方法を並べたてるところがありますね。これはその今一つの方法ですよ。》

 Kの体は海中に斃れ、魂は月へ昇天したものと思われます。月まで続くありえない梯子を描いたサクラノ詩の夏目圭の魂も、月へと飛翔し続けたのでしょうか。

 

 

おへんろ。~八十八歩記~冬・僕もすこしだけ歩いた

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「おへんろ。~八十八歩記~夏・私たちも歩いた」上映会+トークイベント
2015年2月8日(日)17:00~ シネマート新宿

四国のお遍路さんイベントに東京で参加することができた、と言えるだろうか。遠い巡礼の旅を近所で済ませる横着は昔からあって、東京ならば近くの富士塚で富士山登拝の代わりとなった。まぁ、横着と言うな。僕もこのところ膝が悪いし誰しも歳を取ればそうなる。それに東京を離れられない事情の人もいる。

そういうわけで、徳島でしか公開されてなかった映画を見るため "おへんろ。~八十八歩記(はちはちあるき)~" の東京イベントに参加した。おへんろ。は四国八十八ヶ所を紹介する実写情報番組で、番組ナビゲーターとしてはアニメの人物が登場する。担当声優の山下七海さん、江原裕理さん、高野麻里佳さんもこれまで何度か遍路道を歩いておられて、本日上映された映画はそのお遍路の様子を編集した映像作品である。

 


おへんろ 。~八十八歩記~ 夏・私たちも歩いた【予告編】 - YouTube

 

映画は2014年10月に徳島で開催されたアニメイベント(マチ★アソビvol.13)で上映されたものが、ドリパスでのリクエストが集まった結果、改めて東京でも上映されることになった。僕は現状、徳島まで出かけられないので今回のことは有り難かった。


トークイベント付き!『おへんろ。~八十八歩記~ 夏・私たちも歩いた』復活上映なるか!?@シネマート新宿 | ドリパス

季節は夏、江原さんがまだ高校生なので今回は夏休みに合わせた巡礼である。映像は三人が遍路道を探しながら歩いてゆく姿を追いかける。およそ地図は見ずに行くのであるが、道のいろんなところにへんろみち保存協力会のみなさんが貼った赤いシールのお遍路マークやそのほか地元のみなさんの立てた道しるべがあって、その矢印に沿って行けば進めるようになっているのである。ただ、時にこのマークが見つからなくて、道に迷ってしまいそうな不安を感じる。見つかるとほっとする。そうしているとまるで宝探しをしているようだった。

巡礼の三人が道々話をしている様子が良かった。徳島出身の山下七海さんは阿波弁を織り交ぜたトークが魅力的で、東京の高野さんと九州の江原さんも七海さんの阿波弁を真似しながら歩いていたりする。一緒に歩いて話していると、言葉はそんな風に乗り移ってゆくんじゃないかと思う。

山下七海さんが「ななみホッチキス」という不思議な技を持っておられることは Wake Up, Girls! のファンには知られているが、今日のステージで披露されたときには「なにそれっ!?」という(確か)高野さんの反応で、新鮮なものがあった。ななみホッチキスはそう宣言することによっていろんな場面で流れを断ち切ったりなかったことにできるという設定の技であるが、そうした文脈の深いこともこれからまた互いに通じる言葉になってゆくのかなと思った。

 

イベント会場の シネマート新宿には隠しおへんろが用意されていることに気づいた。シアターの周りの通路に「お」「へ」「ん」「ろ!」の4文字がばらばらに貼られていたのである。「ろ!」は男性用トイレの入口の目立つところにあって、僕はそれで気づいて他の文字を探し始めた。「お」は売店のところにあるので普通はそこから始めるのかもしれない。

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上映時間前までには「お」「へ」「ろ!」しか探し出せなくてどきどきした。上映イベントの間に撤収が始まってシールがはがされてしまうんじゃないかって思ったのだ。イベントが終わったらすぐに通路を巡ってシールを探した。そうしたら「ん」を床に近いところで見つけられてほっとした。「お」「へ」「ん」「ろ!」巡礼コンプリートである。

お大師様の待つ四国は遠い。しかし東京の高雄山に薬王院大師堂という小さなお堂がある。お堂は八十八体のお大師様の像に囲まれていて、こちらを拝みながらお堂をひと巡りすると四国八十八ヶ所の巡礼と同じになるとされている。それは同じではないかもしれないが、そうやって思いを馳せることが心に沁みるんじゃないだろうか。

東京にお遍路マークの道しるべはないのであるが、代わりにこんな小さなお遍路を用意していてくれたことがとても嬉しかった。

 

(2015年2月8日)

 

愛、アガペー、あるいは愛理について。

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仙台市八木山動物公園より海を望む


9月14日、Wake Up, Girls! の永野愛理(えいのあいり)さんのイベントに参加するため仙台へ向かった。はやぶさ1号に乗って一路東北を目指すなか、車窓から見えた山の名前を確かめようと Google Map を開いたら田村という地名が目に入った。その隣に伊達市もある。まだ列車は宮城県仙台市よりもずっと手前であって、なるほど、仙台藩伊達家の旧地は福島県にあるのだった。田村は伊達政宗公の正室、愛姫の故郷として記憶していた。このあたりのことはNHK大河ドラマ独眼竜正宗を見ていておよそ覚えている。

中学の頃のドラマだったかと思う。当時、アニパロコミックスで高橋なのさんが "Dandy dragon" という独眼竜正宗の二次創作を描いておられて(Amazon.co.jp: Dandy dragon (OUT COMICS): 高橋 なの: 本)、その影響もあって当時、正宗公(まーちゃん)のことは戦国武将のなかでは一番好きだった。高校の歴史の授業は教科書でなく先生の配ったプリントを使っており、それを閉じるバインダーの表紙に僕は正宗公のイラストを描いた。

仙台には仕事でゆく機会が一度きりあっただけで、史跡などを回る時間はなかった。正宗公ゆかりの場所をいろいろ見たいものだと思っていたが、そうするうちに仙台は僕にとって正宗公とは別の縁を持つようになっていた。それが、今回の旅である。

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上野駅6:38発はやぶさ1号。このまま乗ってゆくと青森に着くというのだから驚く。仙台駅8:04着。

 

仙台で降りたらまずは西口のペデストリアンデッキである。場所としてはここへ来たかったということに尽きる。というのもここは Wake Up, Girls! の "16歳のアガペー" に登場する場所であり、これは永野愛理さんがメインの曲であり、また、ペデストリアンデッキで、とは彼女の担当パートの歌詞でもあるのだ。広大なペデストリアンデッキにはプランターから手すりまで花が飾られており、美しく整えられている。市街地のほうへせかせか歩いてゆく人もあれば、座り込んでのんびり時を過ごしている人もいる。このデッキは永野愛理さん演ずる林田藍里さんが友人たちと話していた場所であって(劇場版・七人のアイドル)、そんな風にこの町の人にとって当たり前の場所だとは思うのだが、僕にとっては、ペーデストーリアン、デッキーでー、という歌声と独特のリズムを伴う特別な場所だ。

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ちょうど再整備工事中であったがむしろ有り難い。工事中の風景のほうが写真で残すことが難しいためである。

ペデストリアンデッキでしばらく写真を撮りまくった後、地下鉄で北仙台まで移動した。北仙台駅からすこし歩いたところに青葉神社がある。この旅における数少ない正宗公ゆかりの地であるが、ここも Wake Up, Girls! 第1話で藍里さんたちが初詣に来ていた場所という理由で訪れたのだった。仙台にお住まいの愛理さんも初詣に来ておられるのではないかと思う。ここ青葉神社には伊達政宗公と愛姫がともに祀られている。愛理さんと愛姫。愛、愛である。仙台ではもしかすると愛という名前は特別な意味を帯びているかも知れない。

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青葉神社。白いベンチが置かれており、そこだけ西洋のお庭に迷い込んだかと思わせる。

 

まだ朝の早い時間に青葉神社へ行って、その後は北四番町へ向かって南へ歩いた。このあたりにはアニメの Wake Up, Girls! によく出てくる場所が集中している、というよりも、行ってみないと判らなかったことであるがほとんど同じ場所であった。彼女らの所属する芸能事務所の Green Leaves と林田藍里さんの家である和菓子屋さんのモデルがほぼお隣さん。駐車場ふたつ挟んでいるだけである。あと彼女らのよく行く喫茶店も目と鼻の先であって、なるほど藍里部屋がたまり場になるわけである。作中ではこうした位置関係が明らかではなかったが、おそらく事務所から藍里さんの家は近いのだろうとは思っていた。なお本日午後のイベントの会場はここであるが、午前中は場所を確認しに来ただけである。

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車線の左側手前が喫茶店、右側の手前から3軒目が事務所、4軒目が藍里さんの家。とても近い。

 

もう一駅分、南へ歩いてゆくと、劇場版 Wake Up, Girls! のファーストライブの舞台である勾当台公園に辿り着く。こちらも来てみないと判らなかったことであるが、仙台の町の中心にある大きな公園の高台にあって、作中では寂しい感じであるがそれよりずっと華やかだった。しかも、この日はちょうど定禅寺ストリートジャズフェスティバルというイベントの日で、仙台の町中の公園や路上でライブが行われており、勾当台公園の野外音楽堂でも高校生のライブステージのため舞台の周りで学生たちが準備をしていた。特にジャズである必要はないようなので、Wake Up, Girls! もこのイベントに参加していたっておかしくはなかった。

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駅前のアーケードのほうまで移動するとこちらにも人だかりがあって、路上のステージになっていた。今日は、仙台って音楽の町なのかな、と思わせるような賑わいだった。クリスロードのカフェのステージ脇には菊間夏夜さんがおられるのを見かけたので、やはり彼女たちもフェスティバルに参加しているらしいと判った。

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エクセルシオールの前に夏夜さんがおられるのを見つけた。

 

そうした路上ライブのステージの合間を抜け出してきたのかしら?という永野愛理さん「熊谷屋一日看板娘」のイベントである。イベント中の出来事は夢のようなことであまり覚えていないが、このあと八木山動物公園へゆくのだとお伝えしたら、でもシャークはいないんですよ……と仰っていて、僕にはすこし残念そうであるように見えた。実際、八木山動物公園で確認したところ、シロクマ、ライオン、トラ、ワニ、ワシがいた。オオカミも昔はいたそうである。しかし林田藍里さんのイメージアニマルであるサメだけはいない。八木山動物公園は次のアニメ作品、うぇいくあっぷがーるZOO! のモデルだと思われるが、山の上の動物園であるから作中でサメが歩いてるのはずいぶんな洒落である。

八木山動物公園へは仙台駅前からバスで、途中から山道をうねうねと登ってゆく。広瀬川に架かる橋を渡るとき見えた渓谷が美しかった。八木山動物公園には何カ所か見晴らしのよい場所があって、そこからは海岸までを見渡すことができた。町がどういうつくりになっていてどんな風に続いてゆくのか、市街地のほうにいると判らないことが少しだけ判った。アニメのEDで流れる "言の葉 青葉" はその断片であるように思えた。

 

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東京へ戻ってきて、そのまま家に帰る気が起こらなくてカラオケでタチアガレ! と16歳のアガペーを繰り返し唄った。16歳のアガペーという歌が生まれた経緯としては、只野菜摘さんのインタビューにあるよう、

この曲だけは、「『16歳のアガペー』でお願いします」と、タイトルがオーダー時点で決まっていたので、まず16歳のアガペーとは……というところから考え始めました。

(WUGpedia p.170)

ということで、そのオーダーを出したのが山本監督。

全ての曲にオーダーを出しました。

(WUGpedia p.150)

『16歳のアガペー』のタイトルは、山本監督がつけたそうですが、実は一度、神前暁さんにダメ出しを受けていたそうです。

(WUGpedia p.68)

山本監督が愛理さんのためにどうしてもアガペーという言葉を持ってきた、そういう特別なしつらえを感じる曲である。なお、愛理さんの日記では次のように書かれている。

私が大学で哲学やってるし
ギリシャ語もやってたしってことで
このタイトルになったんだとか!!

http://ameblo.jp/wakeupgirls/entry-11765011576.html

ここで大学生である愛理さんのアガペーではなく『16歳の』アガペーであるところが、愛理さんと藍里さんとの間にある距離である(林田藍里さんは作中で16歳になっている)。愛理さんのようであって愛理さんではない。只野菜摘さんのように、16歳のアガペーとは……というところから僕も考え始めることになる。

 

Like でも Love でもない言葉を探したとき、アガペーという言葉を見つけてしまった高校生がそこにいるのだと思う。好きというだけでは足りないけれど、成人したラブのニュアンスはなんとなく持たせたくない。それはたまたまどこかで聞いた言葉かもしれなくて、たとえば僕は高校の授業で習ったけど。アガペー。

いっそ、愛だけじゃなくて、愛と理ってあたりがそれアガペーなんじゃないの、なんて。16歳の愛理だね。素敵なお名前だと思う。

 

二時間歌い続けてから帰宅。

さて、それでは愛理さんから手渡しで頂いた宝箱を開いてゆきますよ。

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熊谷屋さんの包み。ゆべし。

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ぱらり。仙臺駄菓子の文字と七夕祭りの絵。

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ゆべしと作中にも出てきた和菓子が色とりどりに詰められている。おいしそう。

こういうの、きっと愛が詰まってるって言うんだと思う。

 

(2014年09月15日)

終わらないパーティー(第二夜)

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1.町について

御茶ノ水駅の近くに建つ病院の屋上へ昇ってみよう。そこには西木野真姫という名前の小さな女の子がいる。屋上のはしっこに立って遠くを見ている。東西へ流れる神田川、そこが昔、舟の往来でにぎわったということは社会科で習っていた。しかし、真姫はその行く先を知らなかったから、想像の舟は霧に包まれてどこかへ消えていった。

川と南北に交差する線路は、秋葉原、上野を経てはるか北へと続いてゆく。この町に日本最大の市場があったころ、東北から汽車に乗って溢れんばかりの物がやってきたという。幼い真姫はその積み荷を想像できないが、いま眼下を行き交う車両たちはなにか遠くからの消息を伝えるものであるように思えていた。

だから、その声が聞こえたのは遠くからだか近くからだか判らなかった。足元に広がる町を探してみると、向こうに見える学校の登下校の声やグラウンドに集まるひとたちの声が聞こえるような気がした。汽笛か、もしかすると鳥の声だったのかもしれないが、音ノ木坂学院の歓声はそんな風に真姫の古い記憶として残っていた。

 

2.年齢について

あのころ考えていた将来にたどり着くまで、高校というのは中間地点なのか、まだ始まりに過ぎないのか、あるいは、もう全ては決まっていて、彼女は終わりの場所に立っているのか。高校へあがった西木野真姫は二つ年上の矢澤にこと出会った。将来というものが等しく誰にもあるとして、にこは真姫よりも二年分それに近い場所にいる、ということは少なくとも言えるだろうか。いや、高校一年の真姫と高校三年のにこは歳が二つ離れているが、ふたりの誕生日のはざま、4月19日から7月21日までの間、歳の差はたった一つになる。そのとき西木野真姫は16歳で、矢澤にこは17歳だ。

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16歳と17歳の関係について、もうすぐ17歳(Sixteen Going on Seventeen)という歌が広く知られている。サウンド・オブ・ミュージックというミュージカルの歌であるが、僕は映画でしか知らない。しっかり者の長女リーズルは、ひとつ年上のロルフに恋している。歌詞だけをみると17歳のロルフが16歳のリーズルに先輩風を吹かせ、世間知らずのリーズルがロルフを頼りにしているが、実際はリーズルのほうがお姉さんのようで、高い場所からロルフに唄いかける。なんにしてもふたりが楽しそうに唄って踊っているのがよい。どちらが年上かなんてことはお互いのこと考えるときのきっかけ程度のものだ。年上だから、頼りになるの。年上なのに、甘えんぼさんね。どちらだっていいし、両方でもいい。

真姫が16歳になるとき、矢澤にこはもうすぐ18歳だ。一足先に階段を昇って、また追いついて、終わらない追いかけっこが続く。卒業して、20歳も越えて、30になっても、すこし年上だから、すこし年上なのに、ずっと愛しい。そしていつか将来だと思ってた暗がりは、もうとっくに終わっていたのだ。

 

3.音楽について

小五の頃、ヤマハの個人レッスンを受けていた。当時はまだ珍しかった学習塾に通いながらエレクトーンのほうもだいぶやっていて、発表会に出ることができた。発表会のエレクトーンはすごいやつだ。自宅のはレバー調整のレトロな電子オルガンという体で、先生の家にあるのはボタンのきらめくシンセサイザー、発表会のステージにあるのは音の鳴るコンピューターというような姿であった。発表会本番ではあらかじめ複数パターンの音色をプログラム入力する必要があったため、近くにあったヤマハのスタジオで発表会と同じエレクトーンを借りて練習した。そういうこともあって、それは晴れやかな舞台に思えた。

エレクトーンという鍵盤楽器についてもう少し説明したい。エレクトーンは鍵盤が三段あって見た目にもピアノと異なっているが、電気仕掛けであるところが子供心には面白かった。電源のスイッチを入れないまま鍵盤を弾いても電子音は鳴らないが、ぽす、ぽす、と鍵の下りる音だけは聞こえた。この誰にも届かないかすかな衝突音が好きだった。

発表会が終わって六年生になると、受験に専念するためレッスンを止めた。エレクトーンは後からいつだって出来ると言われた。ずいぶん経ってようやく受験とは縁がなくなったころエレクトーンを探しに行くと、それはあの、けいおん!に出てくるJEUGIA三条本店であったが、そこでエレクトーンというものが昔と比べて数の少ない、やや独特の楽器になってしまっていたことを知った。それで僕はいま鍵盤が一段しかなくて慣れない普通のキーボードを弾いてるのだけれど、電源を入れずに弾いたときの、ぽす、ぽす、という音だけは変わっていない。

μ's 6th シングルのOVAでは、西木野真姫が弾くピアノも弦が切れたみたいに、ぽす、ぽす、と音を立てた。ピアノには電源がないためこれは異常事態であるが、僕には懐かしく思える音だったのだ。鍵盤を弾くとき、かなで、外へ響く音があって、だけどそのとき、ぽす、ぽす、という鍵の下りる音もまた鳴っているのだということを知る。それは自分にだけ届く音楽ではないだろうか。

学校の音楽室で、七不思議みたいにもうひとりの自分のような誰かと出会うとき、ピアノの音は広がるのをやめて自分の元へ帰ってくる。そのとき外側はもうなくて、彼女はただ音楽とともにあった。

 

4.魔法について

音楽のなかにいるひとは、自らが音楽であることを知るだろうか。絢瀬亜里沙が μ's にときめくとき、彼女らは自らがときめきであることを知るだろうか。マジックのなかにいた西木野真姫は「マジックが使えるなんて」という高坂穂乃果の言葉が判らない。ただ、絢瀬絵里の心配は伝わってきたから「ごめん」と謝りたく思った。夢の中、とは前日に真姫自ら言っていたことであるが、それが再び絵里の言葉にも出てきてびっくりする。マジックなのか夢なのか判らないが、学校の音楽室で出会った誰かと自分はともにいて、ずっと好きだったなんて照れくさいことばかり言うその誰かの言葉は、自分の言葉でなかったとしても恥ずかしくて言えない。

学校のなかにいる彼女らは、自らのことを知るだろうか。それがどんな時間だったかそのときには知りようもなくて、何年も経ってから照れくさい言葉になりそうなその未来の言葉を、魔法は今に伝える。あのときも小さな真姫は、未来の歓声を聞いたのかも知れなかった。

 

(2013年12月8日)