疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

キハ窓外放出事件

列車の窓からものを投げなくなったのは、いつからだったでしょうか。

 

漱石の三四郎では鮎の駅弁を窓外に捨てたら後ろの人が食べ残しの汁などかぶって迷惑するという場面があります。逆にいうと、少々注意さえすればごみを窓から捨てるくらいは行われていた様子ではあります。

この時三四郎はからになった弁当の折を力いっぱいに窓からほうり出した。女の窓と三四郎の窓は一軒おきの隣であった。風に逆らってなげた折の蓋が白く舞いもどったように見えた時、三四郎はとんだことをしたのかと気がついて、ふと女の顔を見た。顔はあいにく列車の外に出ていた。けれども、女は静かに首を引っ込めて更紗のハンケチで額のところを丁寧にふき始めた。三四郎はともかくもあやまるほうが安全だと考えた。
「ごめんなさい」と言った。

明治20年代に折箱式の駅弁が始まって、その後、大正時代の記録では親子丼や鰻丼のようなどんぶりものに陶器が用いられたとあります。また、いまではちょっと信じがたいのですが、明治の頃から駅弁のお茶の容器として土瓶がそのまま販売されました。三四郎の投げた折箱はまだかわいいほうで、実際にはこの丼や土瓶が窓から投げ捨てられて、鉄道会社を悩ませていたといいます。

 

これらは2015年に鉄道歴史展示室(旧新橋停車場)の企画展「駅弁むかし物語―お弁当にお茶― 」で紹介されていた話となります。冒頭の問いへの答えははっきりしないのですが、大正時代に駅弁のマナーとして喚起されていたことが伝わっています。

 

以下、企画展パンフレット p.37 より少々引用します。

大正時代の「停車場構内営業人従業心得」に「御注意 空瓶、空土瓶、空罐、茶碗、丼などを窓から投げらるゝと線路にいる人に怪我をさすことがありますから腰掛の下にお置き下さい」の注意書きを茶土瓶や丼などの容器に貼付するようにとあった

実際の被害について、大正8年鉄道院発行の家庭向け書籍では、

走っている客車の窓から弁当の折や麦酒・サイダーの空瓶などを投げ、見廻りの工夫が重傷を負って気絶したこともあったらしく、物を投げる危険行為をいましめ、つつしむよう切に希望している。

昭和16年発行の絵本において、

絵本でも「窓からものを投げ捨てないこと、車内で散らかさず腰掛のしたへきちんとかたづけること」と鉄道のマナーを記している。

少なくとも昭和16年ごろまでは、ともかく窓から投げるのは、とりわけ陶器はやめてほしい、ということだったようです。そして、窓から投げる代わりに提示されたマナーは、座席の下へ片付けて置いてほしい、ということになっています。あれ、座席の下でいいのか。ごみは各自駅で持って降りてそこで捨ててほしい、とはならないのですね。

 

冒頭の問いを少し変えたいと思います。列車の座席の下にごみがあまり置かれなくなったのはいつからだったでしょうか。企画展パンフレットの p.38 には、座席の下から出てくる大量のゴミの写真(昭和33年)が掲載されていますが、いまではここまで大量のものは見かけません。

マナーの変化もあるとは思いますが、個人的な興味として別の角度からみてゆきます。

 

土瓶時代、仮に駅弁のごみを持って降りるとすればどうだったのかを想像してみました。車窓越しに買ったお弁当と土瓶を、降車時にはこんどは自分の旅行荷物を持った上で、空き箱(あるいはどんぶり)と、その蓋と、お箸と、掛け紙と、土瓶と、あとそれらに食べ残しがついてるような、そうしたものを持って降りなきゃならないわけですよね。・・ちょっと難しいかしら。

当時ものをまとめて包むものとしては風呂敷がありましたが、そういう汁っぽいゴミを風呂敷に包むことってあったのかしら。

いまのわれわれどうしてるかっていうと、駅の売店でも車内販売でも買うときにポリ袋がついてきますので、それにまとめて持って降りて捨てることができます。

 

企画展では「いわゆる使い捨て商品のはしり」として汽車土瓶、駅弁容器が位置づけられていました。昭和30年代中頃に土瓶はポリ製容器へと変わったそうです。使い捨て商品の普及によって、それらをうまくまとめて渡して、捨てるときにもまたまとめて捨てられたらいいな、ということがあって、その先には使い捨ての風呂敷、つまりポリ袋というものが見えてくるようです。