疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

おへんろ。~八十八歩記~冬・僕もすこしだけ歩いた

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「おへんろ。~八十八歩記~夏・私たちも歩いた」上映会+トークイベント
2015年2月8日(日)17:00~ シネマート新宿

四国のお遍路さんイベントに東京で参加することができた、と言えるだろうか。遠い巡礼の旅を近所で済ませる横着は昔からあって、東京ならば近くの富士塚で富士山登拝の代わりとなった。まぁ、横着と言うな。僕もこのところ膝が悪いし誰しも歳を取ればそうなる。それに東京を離れられない事情の人もいる。

そういうわけで、徳島でしか公開されてなかった映画を見るため "おへんろ。~八十八歩記(はちはちあるき)~" の東京イベントに参加した。おへんろ。は四国八十八ヶ所を紹介する実写情報番組で、番組ナビゲーターとしてはアニメの人物が登場する。担当声優の山下七海さん、江原裕理さん、高野麻里佳さんもこれまで何度か遍路道を歩いておられて、本日上映された映画はそのお遍路の様子を編集した映像作品である。

 


おへんろ 。~八十八歩記~ 夏・私たちも歩いた【予告編】 - YouTube

 

映画は2014年10月に徳島で開催されたアニメイベント(マチ★アソビvol.13)で上映されたものが、ドリパスでのリクエストが集まった結果、改めて東京でも上映されることになった。僕は現状、徳島まで出かけられないので今回のことは有り難かった。


トークイベント付き!『おへんろ。~八十八歩記~ 夏・私たちも歩いた』復活上映なるか!?@シネマート新宿 | ドリパス

季節は夏、江原さんがまだ高校生なので今回は夏休みに合わせた巡礼である。映像は三人が遍路道を探しながら歩いてゆく姿を追いかける。およそ地図は見ずに行くのであるが、道のいろんなところにへんろみち保存協力会のみなさんが貼った赤いシールのお遍路マークやそのほか地元のみなさんの立てた道しるべがあって、その矢印に沿って行けば進めるようになっているのである。ただ、時にこのマークが見つからなくて、道に迷ってしまいそうな不安を感じる。見つかるとほっとする。そうしているとまるで宝探しをしているようだった。

巡礼の三人が道々話をしている様子が良かった。徳島出身の山下七海さんは阿波弁を織り交ぜたトークが魅力的で、東京の高野さんと九州の江原さんも七海さんの阿波弁を真似しながら歩いていたりする。一緒に歩いて話していると、言葉はそんな風に乗り移ってゆくんじゃないかと思う。

山下七海さんが「ななみホッチキス」という不思議な技を持っておられることは Wake Up, Girls! のファンには知られているが、今日のステージで披露されたときには「なにそれっ!?」という(確か)高野さんの反応で、新鮮なものがあった。ななみホッチキスはそう宣言することによっていろんな場面で流れを断ち切ったりなかったことにできるという設定の技であるが、そうした文脈の深いこともこれからまた互いに通じる言葉になってゆくのかなと思った。

 

イベント会場の シネマート新宿には隠しおへんろが用意されていることに気づいた。シアターの周りの通路に「お」「へ」「ん」「ろ!」の4文字がばらばらに貼られていたのである。「ろ!」は男性用トイレの入口の目立つところにあって、僕はそれで気づいて他の文字を探し始めた。「お」は売店のところにあるので普通はそこから始めるのかもしれない。

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上映時間前までには「お」「へ」「ろ!」しか探し出せなくてどきどきした。上映イベントの間に撤収が始まってシールがはがされてしまうんじゃないかって思ったのだ。イベントが終わったらすぐに通路を巡ってシールを探した。そうしたら「ん」を床に近いところで見つけられてほっとした。「お」「へ」「ん」「ろ!」巡礼コンプリートである。

お大師様の待つ四国は遠い。しかし東京の高雄山に薬王院大師堂という小さなお堂がある。お堂は八十八体のお大師様の像に囲まれていて、こちらを拝みながらお堂をひと巡りすると四国八十八ヶ所の巡礼と同じになるとされている。それは同じではないかもしれないが、そうやって思いを馳せることが心に沁みるんじゃないだろうか。

東京にお遍路マークの道しるべはないのであるが、代わりにこんな小さなお遍路を用意していてくれたことがとても嬉しかった。

 

(2015年2月8日)

 

愛、アガペー、あるいは愛理について。

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仙台市八木山動物公園より海を望む


9月14日、Wake Up, Girls! の永野愛理(えいのあいり)さんのイベントに参加するため仙台へ向かった。はやぶさ1号に乗って一路東北を目指すなか、車窓から見えた山の名前を確かめようと Google Map を開いたら田村という地名が目に入った。その隣に伊達市もある。まだ列車は宮城県仙台市よりもずっと手前であって、なるほど、仙台藩伊達家の旧地は福島県にあるのだった。田村は伊達政宗公の正室、愛姫の故郷として記憶していた。このあたりのことはNHK大河ドラマ独眼竜正宗を見ていておよそ覚えている。

中学の頃のドラマだったかと思う。当時、アニパロコミックスで高橋なのさんが "Dandy dragon" という独眼竜正宗の二次創作を描いておられて(Amazon.co.jp: Dandy dragon (OUT COMICS): 高橋 なの: 本)、その影響もあって当時、正宗公(まーちゃん)のことは戦国武将のなかでは一番好きだった。高校の歴史の授業は教科書でなく先生の配ったプリントを使っており、それを閉じるバインダーの表紙に僕は正宗公のイラストを描いた。

仙台には仕事でゆく機会が一度きりあっただけで、史跡などを回る時間はなかった。正宗公ゆかりの場所をいろいろ見たいものだと思っていたが、そうするうちに仙台は僕にとって正宗公とは別の縁を持つようになっていた。それが、今回の旅である。

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上野駅6:38発はやぶさ1号。このまま乗ってゆくと青森に着くというのだから驚く。仙台駅8:04着。

 

仙台で降りたらまずは西口のペデストリアンデッキである。場所としてはここへ来たかったということに尽きる。というのもここは Wake Up, Girls! の "16歳のアガペー" に登場する場所であり、これは永野愛理さんがメインの曲であり、また、ペデストリアンデッキで、とは彼女の担当パートの歌詞でもあるのだ。広大なペデストリアンデッキにはプランターから手すりまで花が飾られており、美しく整えられている。市街地のほうへせかせか歩いてゆく人もあれば、座り込んでのんびり時を過ごしている人もいる。このデッキは永野愛理さん演ずる林田藍里さんが友人たちと話していた場所であって(劇場版・七人のアイドル)、そんな風にこの町の人にとって当たり前の場所だとは思うのだが、僕にとっては、ペーデストーリアン、デッキーでー、という歌声と独特のリズムを伴う特別な場所だ。

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ちょうど再整備工事中であったがむしろ有り難い。工事中の風景のほうが写真で残すことが難しいためである。

ペデストリアンデッキでしばらく写真を撮りまくった後、地下鉄で北仙台まで移動した。北仙台駅からすこし歩いたところに青葉神社がある。この旅における数少ない正宗公ゆかりの地であるが、ここも Wake Up, Girls! 第1話で藍里さんたちが初詣に来ていた場所という理由で訪れたのだった。仙台にお住まいの愛理さんも初詣に来ておられるのではないかと思う。ここ青葉神社には伊達政宗公と愛姫がともに祀られている。愛理さんと愛姫。愛、愛である。仙台ではもしかすると愛という名前は特別な意味を帯びているかも知れない。

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青葉神社。白いベンチが置かれており、そこだけ西洋のお庭に迷い込んだかと思わせる。

 

まだ朝の早い時間に青葉神社へ行って、その後は北四番町へ向かって南へ歩いた。このあたりにはアニメの Wake Up, Girls! によく出てくる場所が集中している、というよりも、行ってみないと判らなかったことであるがほとんど同じ場所であった。彼女らの所属する芸能事務所の Green Leaves と林田藍里さんの家である和菓子屋さんのモデルがほぼお隣さん。駐車場ふたつ挟んでいるだけである。あと彼女らのよく行く喫茶店も目と鼻の先であって、なるほど藍里部屋がたまり場になるわけである。作中ではこうした位置関係が明らかではなかったが、おそらく事務所から藍里さんの家は近いのだろうとは思っていた。なお本日午後のイベントの会場はここであるが、午前中は場所を確認しに来ただけである。

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車線の左側手前が喫茶店、右側の手前から3軒目が事務所、4軒目が藍里さんの家。とても近い。

 

もう一駅分、南へ歩いてゆくと、劇場版 Wake Up, Girls! のファーストライブの舞台である勾当台公園に辿り着く。こちらも来てみないと判らなかったことであるが、仙台の町の中心にある大きな公園の高台にあって、作中では寂しい感じであるがそれよりずっと華やかだった。しかも、この日はちょうど定禅寺ストリートジャズフェスティバルというイベントの日で、仙台の町中の公園や路上でライブが行われており、勾当台公園の野外音楽堂でも高校生のライブステージのため舞台の周りで学生たちが準備をしていた。特にジャズである必要はないようなので、Wake Up, Girls! もこのイベントに参加していたっておかしくはなかった。

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駅前のアーケードのほうまで移動するとこちらにも人だかりがあって、路上のステージになっていた。今日は、仙台って音楽の町なのかな、と思わせるような賑わいだった。クリスロードのカフェのステージ脇には菊間夏夜さんがおられるのを見かけたので、やはり彼女たちもフェスティバルに参加しているらしいと判った。

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エクセルシオールの前に夏夜さんがおられるのを見つけた。

 

そうした路上ライブのステージの合間を抜け出してきたのかしら?という永野愛理さん「熊谷屋一日看板娘」のイベントである。イベント中の出来事は夢のようなことであまり覚えていないが、このあと八木山動物公園へゆくのだとお伝えしたら、でもシャークはいないんですよ……と仰っていて、僕にはすこし残念そうであるように見えた。実際、八木山動物公園で確認したところ、シロクマ、ライオン、トラ、ワニ、ワシがいた。オオカミも昔はいたそうである。しかし林田藍里さんのイメージアニマルであるサメだけはいない。八木山動物公園は次のアニメ作品、うぇいくあっぷがーるZOO! のモデルだと思われるが、山の上の動物園であるから作中でサメが歩いてるのはずいぶんな洒落である。

八木山動物公園へは仙台駅前からバスで、途中から山道をうねうねと登ってゆく。広瀬川に架かる橋を渡るとき見えた渓谷が美しかった。八木山動物公園には何カ所か見晴らしのよい場所があって、そこからは海岸までを見渡すことができた。町がどういうつくりになっていてどんな風に続いてゆくのか、市街地のほうにいると判らないことが少しだけ判った。アニメのEDで流れる "言の葉 青葉" はその断片であるように思えた。

 

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東京へ戻ってきて、そのまま家に帰る気が起こらなくてカラオケでタチアガレ! と16歳のアガペーを繰り返し唄った。16歳のアガペーという歌が生まれた経緯としては、只野菜摘さんのインタビューにあるよう、

この曲だけは、「『16歳のアガペー』でお願いします」と、タイトルがオーダー時点で決まっていたので、まず16歳のアガペーとは……というところから考え始めました。

(WUGpedia p.170)

ということで、そのオーダーを出したのが山本監督。

全ての曲にオーダーを出しました。

(WUGpedia p.150)

『16歳のアガペー』のタイトルは、山本監督がつけたそうですが、実は一度、神前暁さんにダメ出しを受けていたそうです。

(WUGpedia p.68)

山本監督が愛理さんのためにどうしてもアガペーという言葉を持ってきた、そういう特別なしつらえを感じる曲である。なお、愛理さんの日記では次のように書かれている。

私が大学で哲学やってるし
ギリシャ語もやってたしってことで
このタイトルになったんだとか!!

http://ameblo.jp/wakeupgirls/entry-11765011576.html

ここで大学生である愛理さんのアガペーではなく『16歳の』アガペーであるところが、愛理さんと藍里さんとの間にある距離である(林田藍里さんは作中で16歳になっている)。愛理さんのようであって愛理さんではない。只野菜摘さんのように、16歳のアガペーとは……というところから僕も考え始めることになる。

 

Like でも Love でもない言葉を探したとき、アガペーという言葉を見つけてしまった高校生がそこにいるのだと思う。好きというだけでは足りないけれど、成人したラブのニュアンスはなんとなく持たせたくない。それはたまたまどこかで聞いた言葉かもしれなくて、たとえば僕は高校の授業で習ったけど。アガペー。

いっそ、愛だけじゃなくて、愛と理ってあたりがそれアガペーなんじゃないの、なんて。16歳の愛理だね。素敵なお名前だと思う。

 

二時間歌い続けてから帰宅。

さて、それでは愛理さんから手渡しで頂いた宝箱を開いてゆきますよ。

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熊谷屋さんの包み。ゆべし。

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ぱらり。仙臺駄菓子の文字と七夕祭りの絵。

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ゆべしと作中にも出てきた和菓子が色とりどりに詰められている。おいしそう。

こういうの、きっと愛が詰まってるって言うんだと思う。

 

(2014年09月15日)

終わらないパーティー(第二夜)

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1.町について

御茶ノ水駅の近くに建つ病院の屋上へ昇ってみよう。そこには西木野真姫という名前の小さな女の子がいる。屋上のはしっこに立って遠くを見ている。東西へ流れる神田川、そこが昔、舟の往来でにぎわったということは社会科で習っていた。しかし、真姫はその行く先を知らなかったから、想像の舟は霧に包まれてどこかへ消えていった。

川と南北に交差する線路は、秋葉原、上野を経てはるか北へと続いてゆく。この町に日本最大の市場があったころ、東北から汽車に乗って溢れんばかりの物がやってきたという。幼い真姫はその積み荷を想像できないが、いま眼下を行き交う車両たちはなにか遠くからの消息を伝えるものであるように思えていた。

だから、その声が聞こえたのは遠くからだか近くからだか判らなかった。足元に広がる町を探してみると、向こうに見える学校の登下校の声やグラウンドに集まるひとたちの声が聞こえるような気がした。汽笛か、もしかすると鳥の声だったのかもしれないが、音ノ木坂学院の歓声はそんな風に真姫の古い記憶として残っていた。

 

2.年齢について

あのころ考えていた将来にたどり着くまで、高校というのは中間地点なのか、まだ始まりに過ぎないのか、あるいは、もう全ては決まっていて、彼女は終わりの場所に立っているのか。高校へあがった西木野真姫は二つ年上の矢澤にこと出会った。将来というものが等しく誰にもあるとして、にこは真姫よりも二年分それに近い場所にいる、ということは少なくとも言えるだろうか。いや、高校一年の真姫と高校三年のにこは歳が二つ離れているが、ふたりの誕生日のはざま、4月19日から7月21日までの間、歳の差はたった一つになる。そのとき西木野真姫は16歳で、矢澤にこは17歳だ。

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16歳と17歳の関係について、もうすぐ17歳(Sixteen Going on Seventeen)という歌が広く知られている。サウンド・オブ・ミュージックというミュージカルの歌であるが、僕は映画でしか知らない。しっかり者の長女リーズルは、ひとつ年上のロルフに恋している。歌詞だけをみると17歳のロルフが16歳のリーズルに先輩風を吹かせ、世間知らずのリーズルがロルフを頼りにしているが、実際はリーズルのほうがお姉さんのようで、高い場所からロルフに唄いかける。なんにしてもふたりが楽しそうに唄って踊っているのがよい。どちらが年上かなんてことはお互いのこと考えるときのきっかけ程度のものだ。年上だから、頼りになるの。年上なのに、甘えんぼさんね。どちらだっていいし、両方でもいい。

真姫が16歳になるとき、矢澤にこはもうすぐ18歳だ。一足先に階段を昇って、また追いついて、終わらない追いかけっこが続く。卒業して、20歳も越えて、30になっても、すこし年上だから、すこし年上なのに、ずっと愛しい。そしていつか将来だと思ってた暗がりは、もうとっくに終わっていたのだ。

 

3.音楽について

小五の頃、ヤマハの個人レッスンを受けていた。当時はまだ珍しかった学習塾に通いながらエレクトーンのほうもだいぶやっていて、発表会に出ることができた。発表会のエレクトーンはすごいやつだ。自宅のはレバー調整のレトロな電子オルガンという体で、先生の家にあるのはボタンのきらめくシンセサイザー、発表会のステージにあるのは音の鳴るコンピューターというような姿であった。発表会本番ではあらかじめ複数パターンの音色をプログラム入力する必要があったため、近くにあったヤマハのスタジオで発表会と同じエレクトーンを借りて練習した。そういうこともあって、それは晴れやかな舞台に思えた。

エレクトーンという鍵盤楽器についてもう少し説明したい。エレクトーンは鍵盤が三段あって見た目にもピアノと異なっているが、電気仕掛けであるところが子供心には面白かった。電源のスイッチを入れないまま鍵盤を弾いても電子音は鳴らないが、ぽす、ぽす、と鍵の下りる音だけは聞こえた。この誰にも届かないかすかな衝突音が好きだった。

発表会が終わって六年生になると、受験に専念するためレッスンを止めた。エレクトーンは後からいつだって出来ると言われた。ずいぶん経ってようやく受験とは縁がなくなったころエレクトーンを探しに行くと、それはあの、けいおん!に出てくるJEUGIA三条本店であったが、そこでエレクトーンというものが昔と比べて数の少ない、やや独特の楽器になってしまっていたことを知った。それで僕はいま鍵盤が一段しかなくて慣れない普通のキーボードを弾いてるのだけれど、電源を入れずに弾いたときの、ぽす、ぽす、という音だけは変わっていない。

μ's 6th シングルのOVAでは、西木野真姫が弾くピアノも弦が切れたみたいに、ぽす、ぽす、と音を立てた。ピアノには電源がないためこれは異常事態であるが、僕には懐かしく思える音だったのだ。鍵盤を弾くとき、かなで、外へ響く音があって、だけどそのとき、ぽす、ぽす、という鍵の下りる音もまた鳴っているのだということを知る。それは自分にだけ届く音楽ではないだろうか。

学校の音楽室で、七不思議みたいにもうひとりの自分のような誰かと出会うとき、ピアノの音は広がるのをやめて自分の元へ帰ってくる。そのとき外側はもうなくて、彼女はただ音楽とともにあった。

 

4.魔法について

音楽のなかにいるひとは、自らが音楽であることを知るだろうか。絢瀬亜里沙が μ's にときめくとき、彼女らは自らがときめきであることを知るだろうか。マジックのなかにいた西木野真姫は「マジックが使えるなんて」という高坂穂乃果の言葉が判らない。ただ、絢瀬絵里の心配は伝わってきたから「ごめん」と謝りたく思った。夢の中、とは前日に真姫自ら言っていたことであるが、それが再び絵里の言葉にも出てきてびっくりする。マジックなのか夢なのか判らないが、学校の音楽室で出会った誰かと自分はともにいて、ずっと好きだったなんて照れくさいことばかり言うその誰かの言葉は、自分の言葉でなかったとしても恥ずかしくて言えない。

学校のなかにいる彼女らは、自らのことを知るだろうか。それがどんな時間だったかそのときには知りようもなくて、何年も経ってから照れくさい言葉になりそうなその未来の言葉を、魔法は今に伝える。あのときも小さな真姫は、未来の歓声を聞いたのかも知れなかった。

 

(2013年12月8日)

Little World

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1.

どうしよう。御茶ノ水で降りたときに東京都美術館ターナー展のポスターが目に入ったから、しまった、そういうのもあるのか、と思って、もう15時前だから今日どちらへ行こうか迷ったのだけど、より輝きがあるように思えた少女画展のほうへ向かった。

大きな絵を穴が開くくらいじっくり見ることができるのはとてもよかった。結果、ちいさな部屋を何周もして、1時間ばかり経っていた。

大きな絵といえば画集 LITTLE WORLD 2 でも大槍さんが何度か触れておられたけど、グッズ向けの絵の大きさはこのところテレホンカード大から、タペストリーや抱き枕カバー、シーツの大きさへと拡大している。大きさに伴って素材も変化していて、大きな絵に折り目や皺がつくのを避けるには硬い板絵のような支持体にするか、その反対にやわらかい布地に描くかで、グッズ絵のサイズの変化は大きな布地に綺麗に安価で印刷できるようになったという技術の変化と並走しているように見える。

抱き枕やシーツのグッズは寝具として利用されず、タペストリーのように壁に飾られることがある。いまではすっかり減ったがこれが紙のポスターだった時代を思い出せば、紙面をいかに傷めないようにするか、画鋲の穴から破れやしないか、など気苦労があった。そのためにポスター用のビニールカバーも販売されている。ところが布地は紙よりもそういう心配が少ない。折れてもアイロンを当てればよい。濡れても水くらいなら大丈夫だ。だいいち生活の場は柔らかい布地に満ちている。暮らしの垢に塗れた場所にも溶け込んで、安心して飾ることのできるのが布地の絵であって、こういう風に考えるときは布地が絵の物理的な振る舞いを方向づけているといえる。

大槍葦人*少女画展において、大槍さんは実験的な試みとして、絵を大きくしたいこと、絵を修正・リペイントしたいこと、そしてモノとしての存在感を上げたいこと、の3つを挙げておられた(【大槍葦人*少女画展】について)。モノとしての存在感というのはほかの二つともたぶん関連していると思う。大きさというのは存在感とまっすぐに繋がってて、だけど絵をそのまま大きく引き延ばすと間延びしてしまうから、キャンバス地への印刷と手塗りのニスを加えて肌理を作り出す。加えて、リペイントでもキャンバス地に塗られたようなテクスチャを持つ塗りに変えられている絵がある(たとえば "Fairies")。

ちょっと想像して、この存在感をうちのワンルームに置けるかというとそうは思えなかったけれど、たまたま隣で絵を見ておられた女性の二人組が素敵なことを仰っていた。これ、玄関から廊下に飾りたいね、と。今回の少女画展用描き下ろしのバレエ少女6人の絵である。練習用の手すりにつかまっている絵。廊下の同じ高さに手すりを付けたら、ほんとに女の子が居るみたいになるね、と。僕はそういう素敵な家に住んでみたいと思ったし、そういう生活において親しく振舞ってくれるような絵だった。

大きいこと。大きくするための工夫を経て、そこにあって、それで嬉しかったのはやはり大槍さんの線を、色を、じっくり見れるってことだった。単なる拡大鏡じゃなくて、大きさに耐えるように描き直されてる、そういう絵。

 

 

2.


大きな絵といえばこれまた先々週のこと、国立博物館の特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」へ行ってきて、洛中洛外図とはそもそも大きいものであるが、それを天井まで届く巨大なスクリーン4面に映し出すのが展示入口の出し物だった。CGで描かれた絵がキャンバス地に出力されるのとは逆で、屏風絵がデジタル化されて映像出力されるのだ。こちらは単なる拡大鏡であるが、それでいい気がする。デジタルってそういうものだと思ってるのだろうか。あるいは光のせいだろうか。この場所は入場したらみながそこで立ち止まるため混んでいたが、閉場5分前に入口まで戻って来たら僕ひとりになった。元となった洛中洛外図屏風(舟木本)にはない、圧倒的な光に包まれた。

僕が初めて洛中洛外図屏風と出会ったのは2004年か2005年頃のこと、JR京都駅前にあった「京の道資料館」(京都国道事務所)で、そこに洛中洛外図屏風(上杉本)の複製が展示されていた。入口の空間は床から壁面にかけていまの京都の地図と洛中洛外図とを重ね合わせた部屋になっていて、ここでも僕は絵の世界に包まれるように思った。屏風というのがそもそも、見る者が立体的に囲まれるための形で、だからさっきのデジタル化された巨大な舟木本やこちらの上杉本の部屋みたいにして僕とふれあう展示は自然な拡張なんじゃないかと思える。

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そんなことも思い出しながら少女画展の会場をぐるぐるした。これではきりがない、またもう一度来ればいいと思って外に出た。新宿御苑のほうへ歩いてゆきながらまだ絵のことを考えていた。時間は16時前で、このまま上野のターナー展までゆける気がした。

 

 

3.


ターナーは絵の具メーカーの名前でお世話になって、それで絵のほうもずっと気になってた。嵐の絵を描く人、というくらいに思っていた。ただ、今日は絵のモノとしての存在感について考えていたので、パレットナイフで盛り付けたような荒々しい塗りを見て自分がどんな風に感じるのかを確認したかった。

ターナー展ではふたつ発見があって、ひとつめ、厚塗りもよいけれどむしろ照明が僕には刺さった。「スピットヘッド:ポーツマス港に入る拿捕された二隻のデンマーク船」は壁一面ほどの絵で、展示では右上から照明が当てられていた。
http://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-spithead-two-captured-danish-ships-entering-portsmouth-harbour-n00481
これがね、絵の左側に立つと、空の左上の明るい白い雲のところだけがね、金色に輝いて見えるのだ。反射光で。

ふたつめは「レグルス」。暗い地下牢でまぶたを切り取られて失ったレグルスが、牢から出たとき、さえぎるものない陽光に目を焼かれ失明した、という伝説に基づいた、その瞬間の絵。
http://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-regulus-n00519
僕にとってその話はCGみたいに思えた。電気を消した暗い部屋で、PCのディスプレイを点けるとき、それはまぶたすら突き抜けてくるように射す光だから。

照明の光とえがかれた光とディスプレイの光とを行ったり来たりする気持ちで会場を巡りまた外に出た。もう夜だった。

 


4.

 

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東京都美術館の近くに先月オープンした上島珈琲店で夕食をとった。このお店は東京国立博物館・黒田記念館別館のなかにある。いま本当に行きたいのは本館のほうであるが、耐震改修工事があった影響でまだしばらく閉館している。もう一度行きたいわけは、黒田記念館本館には黒田清輝の「智・感・情」とその光学的な調査結果が展示されていたからである。智・感・情、はもちろん大槍さんが同サイズ、同ポーズのその絵を描くという企画が数年前にあったわけでもあるが(そして僕は見に行けなかった……)、光学的なスキャンによって絵を厚みのあるモノとして捉えていた記念館常設展示のことを僕は思い出していた。
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/japanese/kogaku/kogaku-tenji.html

絵の制作において、塗り重ね、変更されてきた地層を機械の目で透視すると、塗りの厚みは時間的な立体感を持って理解される。絵の修復においては、後の手による修正を消してオリジナルと思われるところまで時間を巻き戻す場合すらある。CGがいくらでも時間を巻き戻せるのは、全ての過程を機械の目で透視しているようなものである。

ちょうど昨日、コンピュータ科学関連の記事で、絵画を3Dスキャンして3Dプリンタで複製する話題を読んだところだったのだ。コンピュータと絵画との関係はCGや絵画のデジタルデータ化の文脈で語られることがほとんどだと思っていたので、この記事はデジタルファブリケーションに触れるところから始まっていたことに驚いた。つまり、3Dプリンタによって生み出されるのは彫刻だけじゃなく、絵画もたしかに3次元のモノだった。
http://www.nytimes.com/2013/10/24/arts/international/technology-mimics-the-brushstrokes-of-masters.html

機械の目で計測・透視して得たデジタルデータと3Dプリンタを用いた複製技術によって、絵画の立体的な振る舞いがコンピュータで再現されつつある。筆で塗り重ねた凹凸やその向きが再現できる、ということは、既存の絵画を複製するだけでなく、CGとして新たに厚みを持つ絵を描いて、3Dプリンタで出力するということもできるわけだ。きっとそれも、CGを経由して出力された絵画の、モノとしての存在感を支えてくれるように思う。

絵画の3Dプリンタによる複製の事例はふたつある。ひとつはデルフト工科大学(オランダ)の研究で、ニコンのカメラ2台でつくったステレオ撮影システムでレンブラントやゴッホの絵画の表面の色と深度情報をキャプチャしている。X線その他電磁波を用いたスキャン結果とも併せて色の検出精度を高めているようだ。ステレオ撮影システムについては製作者である博士課程学生 Tim Zaman 氏のブログに詳しい( http://www.timzaman.com/?p=2606 )。3D出力はキヤノングループのオセ(Océ)が担当。Zaman 氏によると、この方法では絵画の輝度や細かな粒子はまだ再現できずオリジナルにずっと及ばないが、単なる2Dのポスターよりはずっと進んでいるという。複製の対象としたレンブラントの絵はアムステルダム国立美術館の協力、ゴッホはクレラー・ミューラー美術館の協力、ってここ僕は行ったことあるね、そういや( http://www.kmm.nl/jp/ )。2004年の七夕の頃だ。クレラー・ミューラー美術館で僕が覚えてるのは、茶色がかった美しい空の絵があって、そのときオランダの旅で見た空も実際そんな風な色をしているときがあったということだった。

もうひとつは、富士フィルム・ベルギーとゴッホ美術館の展開している Relievo。ゴッホの作品について、その大きさ、色、表面の凹凸等を3Dスキャン、3D出力した複製画に加え、額縁の裏面に書き加えられた文字やスタンプなどもすべて再現する。額縁に収められた絵画をぜんたい複製するのである。7年がかりの仕事で、ゴッホ美術館のアドヴァイスを受けながら再現性を高めたという。
http://www.fujifilm.eu/eu/news/article/news/premium-three-dimensional-replicas-of-van-gogh-masterpieces/

なにゆえ絵画を複製しようと思ったのかといえば、ゴッホ美術館については多くを自己資金で運営しているという経済的な背景によって、これで商売することが狙いであった。ただ、Relievo は複製であるからオリジナルよりも手に入れやすいし、ちょっと触ってみたっていい。それで絵画から刺激を受けたり、理解が深まることもあるだろう。そうしたことをできるだけ多くの人へ届けたいというゴッホ美術館の使命にも Relievo は適っているのだという。

アムステルダム国立美術館のほうは、複製技術が絵画の修復や研究、商業目的に有用なのかどうかを知りたかったという。デルフト工科大学とオセは、絵画の修復や研究に役立てることに興味がある。例えばそれは、ダメージを受けたオリジナルの絵画を元の形に近づけて複製展示できるかもしれないということ、あるいは絵画を遠方へ貸し出してから帰ってくるまでに受けたダメージを3Dスキャンによって計測することもできるだろうということだ。

 

僕らが身近に触れることができるのは、壊れやすいものだから。

 

絵の具は大きく描いても空間が間延びしない凹凸を多かれ少なかれ伴っている。そこには見つめれば細部へと入ってゆける楽しみもある。また、照明や見る角度による変化もある。少女画展を訪れて僕は、いつかCGでもそんな風に大判出力できることが当たり前となって、複製されたそれが僕の手元にあって、触れられるような距離で、十分な肌理を伴ったその表面を、飽きもせず眺めていられるような時間と場所があれば、それは小さくてだけど夢みたいな世界だろうって思った。

(2013年10月26日)



あの娘はかわいいもち屋の佐保姫

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1.

五月の連休中、法事にあわせて奈良へ帰ってきた。祖母がこのごろ東京にいる僕のことを、いったいどうしているものかふと考える時間が多いのだと聞いていた。孫は僕のほかにもいてしばらくはそちらへかかりきりだったから、さて、また僕のことが気がかりになるというのはなにか魂のようなものが呼ばれているようで、帰らなくちゃいけないと思ったのだ。

東京から奈良へ。いつものように東と西を行ったり来たりのお話である。在原業平が東下りし、菅原孝標女が都へ上り、鈴原泉水子さんが東京へ向かうその東西である。

今日は祖父の七回忌だった。和尚(オッ)さんは京都の学園で先生をされていて、連休中も忙しいなか来てくださった。ぼんやりの僕は数珠を忘れてきて、和尚さんが唄うようにあげる経をただ坐って聞いていた。祖母も僕の隣でときどき唱和していた。お坊さんは声がよくなければ務まらないと思った。

お膳を出して、お供えをわけて、うちにもおもちが詰められた。奈良のこのあたりといえばおもちという感じがある。どこで買ったか訊いてみるとうちの近所のおもち屋さんで、ふつうの町なかにおもち屋さんが交じっている。ようこそ、うさぎ山商店街へ。

 

2.

午後からPant-selさんと合流して薬師寺へ。金堂では人を集めてお坊さんの法話があった。今日はよくお坊さんの話を聞く日だと思った。話はなかば漫談のようで面白くなっており、最後にお代として二千円の写経一巻が勧められる。かつての管主、好胤さんも話が上手だったとあとで母から聞いた。さきの話は薬師寺十四人のお坊さんのうち最若手による法話芸であった。お坊さんは話もうまくなければ務まらないと思った。

薬師寺では連休中の法要にあわせて野点が行われていた。僕らは関係ないものと思って西塔のあたりをぶらぶらしていたが、そこで元気のいいお姉さんに捕まった。九十四歳、僕の祖母より少し上であるが、おひとりで来られていたようだ。野点の招待券があるからと僕らに二枚渡して帰ってゆかれたので、僕らは代わりに会場へ向かった。そこでまた柏もちが出てきた。今日はお坊さんとおもちばかり出てくる日だと思った。

 

3.

Pant-selさんと別れて僕は佐保山のふもと、一条通へと向かった。京都一条戻り橋の伝承が知られているが、奈良にも一条通がある。どちらも条坊制の都であるから一条通、三条通、と同じように名を残している。佐保山は僕がゲームで吉野佐保姫と出会って以来、気にかけてきた土地である。奈良の北端から京都の木津あたりまで広がる丘陵を平城山(ならやま)と呼んで、その平城山の南端が佐保山である。松永弾正の多聞山城もその一部といっていいだろう。どこからどこまでが佐保山なのかはっきり決められてるものではないが、地元人の母に確認したところだいたい一条通から北へ広がる丘は佐保山と呼んで差支えなさそうだ。


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京都からやってくるJR大和路線は佐保山の西端に沿って走り、一条通の手前で少し東へカーブする。このまるく張り出したあたりに在原業平ゆかりの不退寺がある。

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西側の麓に大和路線が走る。

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大和路線の踏切から不退寺の森、奥まったところに南門が見える。

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不退寺本堂、室町初期に再建。柱に刀傷のようなものも残るといい、古きを偲ぶ静かな土地柄というばかりではなかった。

不退寺の住職さんらしき方に伺ってみると薬師寺のみなさんとは交流があるという話になって、いまちょうど薬師寺から来たところなので縁は繋がるものだった。前に薬師寺の古い資料から不退寺の名前が出てきたそうで、薬師寺の末寺である時代もあったことが判ったという。興福寺の末寺だった時代もあり、いまは西大寺の末寺である。お寺の立場も時勢によって変わってゆくものである。近隣に真言律宗西大寺の末寺は多く、海龍王寺、元興寺極楽坊、般若寺、やや離れるが京都の浄瑠璃寺、岩船寺もそうで、諸寺持ち寄って大祭を行う。不退寺も五月の業平忌には周りのお寺からの手助けを受けて盛大な法要を行う。

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業平ということで杜若(カキツバタ)かと思わせるが、残念、菖蒲(キショウブ)でした。いずれ菖蒲か杜若。

不退寺は平城天皇が晩年を過ごした萱の御所の跡に建立されたと伝えられる。住職さんによると、古墳時代の面影を残す佐保山は人が隠棲する気持ちに寄り添うものだったのではないかということだった。不退寺は平城天皇の孫である業平の開基とされている。

現在は一条通からすこし奥へ入った場所にあるが、お堂の裏の竹藪に溝や土塀の跡が残っており、おそらく昔は佐保山のふもと一条通から裏の竹藪あたりまでの丘一帯が境内だったのでは、と仰っていた。失われた記憶や記録は少なくない。いま本堂の中にはお伊勢さんの祀られた一角があり唐突な感じがあるが、もとは境内の別の社にあったものが移されたのだという。お伊勢さんがやってくる前は本堂のその場所になにかあったはずであるが、もはや失われてしまっている。お伊勢さんの社も不退寺が建立される前からそこにあったのではないかとは住職さんの予想。古いものの上に新しいものがやってきて、失われたり埋まったり混ざったりしてゆく時間の層が丘陵を成している。

不退寺は八年ぶりに訪れた。前にも副住職さんとお話させて頂いて、そういえば今日も同じ方だったかも知れないと後になって思い当った。

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なりひらばし。東京にも東下り伝説にちなんだ業平橋がある。業平橋の駅は現在とうきょうスカイツリー駅と名前を変えた。

 

4.

不退寺から東へ歩いてすぐのところ、佐保姫ゆかりの狭岡神社も八年ぶりである。佐保姫が姿見につかった鏡池というのは前回、枯渇の危機に瀕していたが、その四か月後に保水工事の行われたことが今回判った。いまではいっぱい水をたたえて、金魚など気楽そうに泳いでいる。

f:id:kgsunako:20130505025612j:plain 2005年1月

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佐保山に由来して春の女神とうたわれる佐保姫と、記紀に伝わる狭穂姫と、佐保山に位置する狭岡神社に伝わるサホヒメとは、地理的なこと、音が同じことからすっきり分けられない感じを受けていた。しかし鏡池に立つ掲示で八年前には佐保姫となっていたものが現在は狭穂姫と修正されており、記紀の伝承地としての碑も建てられた。記述の上では狭穂姫が採られるようになったが、境内のほかの場所を見ると春の女神としての佐保姫と関連づける情報紙のコラムが掲示されていたりする。この土地に限っていえば、佐保姫と狭穂姫とはどちらとも取れるものとしておくほうがミスティックだと思う。

 

5.

ところで、荻原規子さんの東西の旅はRDGのほか薄紅天女に現れる。薄紅天女は菅原孝標女の更級日記に想を得ており、順を追えば、都に住む菅原孝標女の思い出のなかにある、幼いころ東国で人づてに聞いたたけしば伝説を、さらに荻原規子さんが語りなおしたのが薄紅天女に描かれる東から西、西から東への人の往来である。それは伝え聞き継いだ、幾重にも夢のようなところから生まれてきた物語である。

薄紅天女において、たけしば伝説の皇女さまは長岡京のころ、安殿皇子の妹として描かれる。ここの兄妹は見どころで、病気の兄がうわごとのように、東国からくる天女さまが救ってくださる……と言うものだから、妹さんのほうは、これはいけない、大好きなお兄ちゃんを自分がなんとかしようと旅に出る。そして、このお兄ちゃんこと安殿皇子が、のちの平城天皇、つまりは在原業平の祖父に当たる人物である。更級日記と伊勢物語に描かれる東西の往来の物語を血筋で繋ぎとめたのが荻原規子さんの独創で、面白いところだと思う。

佐保山自体も東西の要素を備えており、平城京から見て西の竜田山に秋の竜田姫、東の佐保山に春の佐保姫、という神格があると言われている。薄紅天女と重ねて空想するならば、平城天皇は幼いころに夢見た東の天女を、東の佐保姫の姿に重ねただろうか。そんなことを思いながらじっさい佐保山へ登ってみると、思いもよらぬ眺めがあった。

佐保山から、平城京の大極殿が見えるのである。考えてみれば当たり前のことであるが、いまは第一次大極殿が復元されているので、それを目で確認できるのだ。細かいことを言えば第一次大極殿は平城天皇の時代にはもうないが、萱の御所のあたりからも平城京の大極殿があったあたりを眺めることが出来たのだと判った。佐保山の西の端に建つ不退寺の、その前にあったであろう萱の御所の目線は、東どころかまったく西の、旧都のほうを向いていた。

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正面真ん中に大極殿の屋根が見える。

 

6.

うちへ帰ったらさっきのおもちがお雑煮になっていた。今日はどうやら本当にお坊さんとおもちに尽きる日だった。

僕は明日の朝、新幹線で東京へ帰る。西で見た話を東へ持ち帰って、それがまた何かと繋がるだろう。

 

次回はどんなおもちが食べられるかな。

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(2013年5月4日)

秋葉原のラブライブ・イヴ

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1.

故郷のスーパーマーケットが本日で閉店になった。ちいさい頃よく連れられていった場所で、改装のときすでに名前も建物も変わってしまったのではあるが、あの場所からスーパーがなくなってしまうことは僕の記憶する街の、かつて在ったその層がまた深くなっていったように感じられた。

正月、帰省した際に聞いてはいたが正確にいつ閉店なのかは意識してなかった。本日閉店の知らせは関西からTwitterのタイムライン上を流れてきた。僕が東にいるときは西のことを思い出して西にいるとき東のことを思い出すというように、思い出を探るときはいつも西と東を行ったり来たりになるのだがその話は折にふれ伊勢物語や竹芝のことで書いてるし、また今度まとめようかと思っている。

本日は東京なう、秋葉原の話である。何十年も経てば街なんてどこかしら変わってく。ただ、秋葉原の変化は電気や映像できらきらしている。だから秋葉原は変わった、なんてわざわざ言われるんだろう。変化というのは何か原因があってその結果だ、とは必ずしもそうでないが、あのときこうだったら別の秋葉原があったのではないか、大きな変化はIFを喚起する。だからシュタインズ・ゲートの秋葉原ではIFの世界線が絡み合っている。

秋葉原に関する一番古い記憶は、受験で関西から出てきてはじめて東京を一通り見て回ったとき、どうやらあのPiaキャロットレストランがあった1999年のことであって、最近になって掘り出した写真からそれと判った。なるほど、そうでもなければ秋葉原には行かない。だって大阪の日本橋で足りてたからさ。そうは言っても次の年、東京へ来てからは週に何度も通ってた。駅前にはまだ大きな駐車場があった。それが青果市場の跡だというのはずいぶん経ってから知った。秋葉原の風景は過去の市場移転のときにも大きく変わっていると思うが僕にとってはやや遠い話だ。その市のことはUDXレストラン街のアキバ・イチという名前でときおり思い起こされるだけだ。ラジオ会館すら僕にとってはもうK-BOOKSがある建物という認識だったので、電子パーツがひしめいてるのを横目に布物グッズを漁りに訪れた。

人工衛星の突き刺さったラジオ会館は建て替え工事のためもはやない。シュタインズ・ゲートで描かれた風景はUDXとラジオ会館という新旧ランドマークが同時にあった5年間を記録している。発売時期を考えるとこれは偶然であるが、秋葉原を描こうとすればそういう風になるものかもしれない。

僕は大学を卒業して関西へ戻ってからまたどういうわけか秋葉原と関わりをもって西と東を往復していた。駅前の再開発が目に見える形となって、市場の跡地、僕にとっては駐車場の跡地であるが、そこでUDXやダイビルの工事が行われていた頃のことである。それで、この当時を思い出すきっかけになったのが今はまた東京にいる僕が見ているアニメのラブライブ!だ。

 

2.

ラブライブ!には1月からのテレビアニメで初めて触れたが、秋葉原の学校が舞台であるとはどこかで聞いていて、秋葉原で近年廃校となった千代田区立練成中学校の話が記憶から甦ったのだった。また、UTX高校というのは見た目のモデルがUDXであり、この練成中学とUDXには少々縁があったことも思い出された。

練成中学は2005年の3月一杯で廃校となったが、その校舎は2006年の秋葉原UDXオープンまでの間、ミュージアムとして利用されていたという経緯がある。というのは、UDXビル内にはかつてデザインミュージアムの設置が計画されており、それに先行して空き施設を利用した活動が開始されたのだった。

http://web.archive.org/web/20060516070612/http://www.d-akihabara.jp/pdf/0722/press_rensei.pdf

デザインというのは、ラジオ、オーディオ、家電の生まれた時代背景、設計の思想とアイデア、そうしたもの全てを含んで、いずれも秋葉原とは縁が深い。その展示と探索のための空間が秋葉原に構想されていた。

UDXのデザインミュージアムはその後わけあって頓挫したと聞いているが、練成中学のほうは改装されて2010年にアート活動の集う場として生まれ変わっていたことを、今月になって知った。空き施設を活用するという思想のほうはずっと生き残っていたのだ。

ラブライブ!の廃校話とUTX高校の姿を見ると思い出されるのは、僕にとって懐かしいそうした出来事だ。デザインミュージアムが秋葉原にある世界線を当時の僕は未来に見ていた。

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UDXオープン後しばらくの間は、UDXにもデザインミュージアム関連の展示が置かれていた。写真はアキバ犬の群れ(2006年7月25日撮影)。

 

3.

それで今日は実際、廃校跡を訪れたのだった。冒頭の写真がそれである。校庭は公園に、入り口は階段を昇った2階で、職員室らしき部屋がカフェになっている。思ったより人がいる、というのが第一印象で、校内をうろうろしているうちに、部屋のどこもかしこも人がいてなにか活動しているのだということが判ってきた。

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1階へ降りてみるとデジタル一眼を両手で抱えた小さな女の子が廊下を走っていった。なにか被写体を探してる風だった。カメラ小僧、というのは少し前に根津神社でも見たので、デジタル一眼の影響でまた新しいカメラっ子も生まれたものだなと思っていたが、そのまま廊下をゆくと面白いことになってしまった。

実は、写真のワークショップが行われていたのだ*。写真家のみなさんが中心となって、東北をはじめ各地を回っておられる。そこでカメラの使い方と、どんな風に撮るといい具合になるか、写真と文章の組で表現することなどを参加者に伝えて、それぞれ街を撮るのだ。小学生、高校生、大人、いろんなひと。ここで撮られた写真は校内の階段やガラスの世界を切り取ったもの。あとは校舎のまわりの空。練成中学は秋葉原電気街の北端・末広町の交差点からたった50メートル入っただけの場所であるが、景色はもうきらきらでなく毎日の暮らしの空だ。大阪日本橋でいえば市立日本橋中学校あたりを思い出せばいい。(だけど、あそこももう変わってしまったかもしれない。)

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秋葉原と日本橋のクロッシング・ポイント。
・・・・・・ではなく、大阪のほうはNipponbashiである。東京ではまずこれに慣れない。

この地域にはあらぶんちょ!というコミュニティ放送があるが、去年のこと、テレビをつけたときにたまたまこれとは別の写真ワークショップが紹介されていた。メディア・コンテと呼ばれる活動で、こちらは電気街の外ではなくど真ん中、真空管時代のオーディオマニアの人々の記憶が写真とともにつづられていた。僕には見えていない、秋葉原の姿がある。

さて、いい写真を撮る、というのは身構えるところもあるだろうけど、写真家のみなさんはときに陽気であったり、真摯であったり、経験でもって自在に場を支えてくださるのが東北でのワークショップ記録映像を見たりこの日の写真発表会に参加させて頂いたりして判った。日々の暮らしとはちょっと別のことをする、それは写真を撮るだけでなく絵を描くということも、空想をするというのもそうであるが、そういうことを始めたり、出来上がりまで維持するのは難しくて、描線がおかしいように思えたり、まるで解けない妄想になってくると壊れてしまう。そういうときただ傍にいるだけでも支えとなるような力をもっているのが芸術家なのだと僕はある先生との出会い以来、思っている。

巡回は東北にはじまり、今回の東京、新潟、横浜、と続くそうだ。昔はこうしたワークショップがその場その場での活動となって繋がりを持つのは難しかったが、いまはFacebook上で行われている。僕も関西の思い出をネット越しに東京で組み立てている。

*「I TIE☆会いたい」写真ワークショップ・3331Arts Chiyoda

 

4.

その後、UDXの東京アニメセンターでラブライブ!展があったことを思い出して中央通りの歩行者天国を抜けていった。

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デザインミュージアムのアキバ犬が並んでいた辺りもこの世界線ではラブライブ!が並んでいる。ここまで手ぶらでやって来たが入学案内やらグッズやらで荷物が一杯になった。

入学案内によると、ラブライブ!の音ノ木坂学院は「秋葉原と神田と神保町という3つの街のはざまにある伝統校」である。校門前の高い階段は本郷台地の崖であろうから、御茶ノ水にたくさんある階段や坂のいずれかなのだろう。そういえば御茶ノ水は音楽の街で、楽器やレコード店が並んでいる。

写真も絵も、空想も、音楽も。学校のふつうの日々ではありえないステージに立つこと、それを始めたり続けたりするときに支えてくれる力というのが、テレビアニメの高坂穂乃果さんには生じてくるのかもしれない、と第3話を見て思った。

 

 

ところで、ランチボックスのようなグッズは僕が本来の用途通り使う機会はなさそうであるが、箱状のものは容易に部品入れへと化ける。買ったものは積んでおくよりもどうにか使おうというのが僕なりの秋葉原である。

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(2013年1月20日)

花咲く佐保姫のための嬉遊曲

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佐保姫というのは春の女神の名前であるが,奈良の高校野球界ともやや奇縁を結ぶ.1991年春のセンバツ大会に出場した奈良高校のおとなりに佐保姫ゆかりの狭岡神社がある.あたりを佐保山と呼ぶ.

 

2005年のこと,狭岡神社,佐保姫の鏡池など旧跡を巡ったすぐ後に,たまたま花咲くオトメのための嬉遊曲をプレーした.とはいうものの僕が吉野佐保姫のこと大好きになったのは佐保山での体験は関係なく,そちらはすっかり忘れていた.後になってから,あれ,そういえばどちらも佐保姫だなぁ,とめぐり合わせのあることに気づいたのだった.

 

氷室乃雪は遠ざけておきたい感じの人だったが,「アストロ滑走団でわかる恋愛の才能」と題した原稿を書くために彼女の言葉を引き写してるうち,僕の胸のなかに居場所ができていた.

 

小松葵はアストロ滑走団(花咲くオトメのための嬉遊曲 イレギュラーズ収録)からファンになった.中山嵐と小松葵の会話はふたりとも気配りの人だからか心地よく響く.あとロマンティック.望遠鏡はひとりで覗くものなので嵐の来訪に対して葵はレンズから目を離す.ふたりで見るべきは星じゃない,星空なんだ.