アストロ滑走団でわかる恋愛の才能

疏水太郎


初出:『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+』
(theoria,2010年8月15日発行)
http://d.hatena.ne.jp/then-d/20120618/1340112564
夏葉薫論より

 

1. 序論

 

自然性を欠いた恋愛の描写は夏葉薫の持ち味として自負されている。本稿ではこの意識が恋愛以外にも拡がる様子を示すことによって恋愛ゲームシナリオライタ夏葉薫の射程を明らかにする。

 

恋愛ゲームにおいて恋愛の在り方に注意が向けられることは珍しくない。人はいつどのようにして誰かを恋愛という意味で好きになるのか、恋愛に理由を定めることができるのか、恋愛とは何か? という命題がそこにはある。恋愛ゲームに恋愛の命題は必須でないにせよ、ときにその水準を示すことは恋愛ゲームシナリオライタの本懐だろう。夏葉作品のなかで恋愛の命題といえば『花咲くオトメのための嬉遊曲』シリーズ(以下嬉遊曲と略す)に含まれる「夏子を巡る対話篇 」が際立っている (*1)。これは主人公の大宰信とヒロインの一人、氷室乃雪によって紡がれる対話篇であり、純粋な恋愛がどのようにはじまりどのように在るべきかを語り、そこに純粋ではない自分たちが歩む道を定めてゆく。詳細は次章に譲るがまずはこの対話が存在感をもつ理由としてアニメソングで知られる枯堂夏子の詞を縦横に引用しながら進める異様さを挙げておきたい。

 

嬉遊曲における夏葉薫の癖の強さは氷室乃雪という人物によって代表されている、と本人のコメントから察することができる。「予定通り、という感じが強いです。というかこの阿呆を許せなければ『花咲くオトメのための嬉遊曲』という癖の強いゲームは受け入れようもないわけで、一位はある種の必然ですね。」(『花咲くオトメのための嬉遊曲フルカラービジュアルファンブック』p.18より)ここで氷室乃雪が阿呆である理由の片棒は「夏子を巡る対話篇」だろう。恋愛を詩趣あふれる歌詞でもって観念的な高みへと押し上げようとするのは考えすぎで、この阿呆、と親愛をこめて呼びたくなる。なぜならば、もう半分の彼女は打棒によって本塁打という実際的な結果を生み続けるのだから。この両極端め!

 

夏葉薫の自負を示すものとして本人のブログ記事(http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20080507)も紹介しておきたい。『恋魂詰』の星乃京ルートその1の紹介として「いつものです。後ろ向き男子と明後日向き女子の恋愛行動/CODE-L。俺のファンにはオススメ!」とある。ここでCODE-Lとは次のような星乃京の恋愛観を窺わせる造語である。

 

「love、と恋愛、はどちらもLからはじまる、って思うと不思議よね。愛とamourはどっちもAからだけど」

「恋、っていうより、恋愛、っていうちょっと突き放した言い回しのほうが、ひょっとして、loveっぽいのかも知れないわね」

「近代的な恋愛のコード、は明治以降に学習されたわけ」

「で、それがある種の自然性を欠いた行動として現象するのは日本人の必然……とまでいくとトンデモか」

 

CODE-Lとは、Lからはじまるとりとめない言葉遊び、しっくりこないまま遂行される恋愛のコードを意識すること、そして恋愛ってなんだっけかと恋愛のさなかにいちいち考えてしまうということ、そんな星乃京の明後日向きな様子を指すものであろう。

 

しかし、夏葉薫が人の不自然な在り方を採り上げるのは恋愛に限ったことではない。「アストロ滑走団」は『花咲くオトメのための嬉遊曲 イレギュラーズ』に含まれる章の一つで、嬉遊曲本編ではサブヒロインだった中山嵐と小松葵のスキー旅行における交友が描かれている。ふたりの対話として構成される点、対話の場が野球部活動ではない点において「夏子を巡る対話篇」と似た印象を受けるが、その内容は恋愛に留まらず、入部の理由、そしてふたりが友人としていま雪原に立っている理由にまで到達する。ここで、彼女らは関係のはじまりについて考えている。いや、はじまりについて考えすぎてしまっている、と言い換えたほうがよい。中山嵐は小松葵から野球部へ入部した動機を尋ねられて考えこんでしまう。

 

「どうして、野球部に入ったんですか?」

「紅葉に頼まれたからだが」

「ソフト部の正ショートなのに?」

「んー、まあ、なんだろうな、それは。確かにソフト部でずっとやってりゃセレクション回ったりしなくてよかったんだろうが」

 そこで、俺は言葉に詰まる。

 色々と細かい事情はあったんだが、今振り返るとどれもこれもそこまで決定的だったようには思えない。

「あー、なんだろうな、改めて聞かれっと、困るな」

 

普段は「紅葉に頼まれた」という理由で納得できているのだけど、改めて考えようとすると何だか判らなくなる。不自然に考えすぎてしまうような関係のはじまりについて論ずるとき、夏葉薫の射程は恋愛関係にとどまらず同性の交友関係にも届いている。そもそも恋愛について語るということは、より丁寧に進めるならば恋愛でないものについても語り、恋愛とそうでないものとの差異を明らかにしてゆくことであろう。本稿ではこの夏葉薫の丁寧さに注目し、そこで何が語られているのかを確認してゆく。

 

 

 

2. 恋愛のはじまりと「夏子を巡る対話篇」

 

まずは「夏子を巡る対話篇」で提示される恋愛のはじまりについて復習する。「夏子を巡る対話篇」が採り上げる枯堂夏子作品は主に「恋愛の才能」であり、氷室乃雪はそこに恋愛の純粋な体験を見出している。

 

 「『好きだよ』と 言わないで」

 「ねえ また いまも 目が合ったよね 目をそらす 瞬間が Ah 好きよ」

 「『恋人』と呼ばれたとき もう それは 恋じゃないのよ」

 (「恋愛の才能」より)

 

告白しないこと、目をそらすこと、名付けられないこと。そんな風に恋愛が明示的に表現されないことによってこそ、表現になる前の胸の高鳴りを純粋なまま抱えていることができる、これが作中で枯堂夏子第一のテーゼとされる「恋愛とは互いに孤立せる状態」だ。そして、孤立せる状態のふたりの恋愛がどのように可能になるのかという問いへの応えが第二のテーゼ「所与としての恋愛」である。第一のテーゼは「恋愛の才能」に既に書かれた内容の整理であるが、第二のテーゼは第一のテーゼで残る疑問に対して示された新しい答えである点に着目したい。ここで所与とは一体どういう意味であるのか、孤立しているふたりの恋愛はどのようにして可能となるのか、以下、大宰信と氷室乃雪の対話を追いかける。

 

「出会われる事は意志を越えた出来事であり、それこそは恋愛が世界からの祝福である証左だ、と」

「そうそう。

 これが枯堂夏子第二のテーゼ『所与としての恋愛』よ」

(中略)

「好きになったらしょうがないんだろ?そして好きになる相手は選べない。ならば、恋をする前から悩む必要なんてないのさ。悩もうが悩むまいが、予感もなく恋は来る。好きになってしまったあとに、恋愛の純粋形を貫くか、それとも堕落した恋愛関係に耽溺するか……。その選択権くらいは君の手の内にあるし、所与、さだめであるのならば、恋愛はそれ以上の自由を君に与えたりはしない。君が俗物である事に君が恋愛家であることは圧倒的に先行する。

 だから、好きなら好きって言えばいいのさ」

 

互いに表現を交わす意志のないふたりが出会えるのだとすれば、さだめとしか言いようのない、まるで恋愛家が謳うような、祝福ともいうべき恋愛の純粋形が僕らの意志よりも前に存在するのだとしか思えない。ここで所与とは恋愛のはじまりを支えるその出会いのさだめである。

 

 

 

3. 交友のはじまりと「アストロ滑走団」

 

さて、はじまりについて再び考えよう。僕らは何年何月何日から友人になったのだろう。その関係はいつか親友というものに変わるのか、あるいは恋人になるのか。そもそも友情ってなんなのか。そんなこと毎日考えてはいない。日々をともに生きるふたりがその関係のはじまりについて考えてしまうのは何か特別な機会があってのことだ。「アストロ滑走団」では部活動以外のプライベートな付き合いをあまり持たなかった中山嵐と小松葵のふたりが、卒業旅行の場でようやく出会いのきっかけである入部の動機について語り合い、恋の話を経由して、自分たちの交友のはじまりにたどり着く。

 

まず、入部の動機に関する話は次のように結ばれる。

 

「今、結構楽しいですから、そうなるとダメですね、理由とかどうでもよくなっちゃいます」

「でも、それは今だけかもな。四月になったらまた新たな気苦労が待ってるわけだ」

「そうですね。中山さんともお別れです」

「そうだな。お互い、五月早々に理由探しなんか始めないようにしたいな」

 

彼らの日々の楽しさは、いまやっていることの動機が判らない状態に等しいと捉えられている。だから、理由探しなんか始めることにならないほうがよいというのだ。しかし、小松葵は恋をしてしまうと日々のあらゆることに因果関係があるように思えてダメになってしまう。たとえばそれは恋愛の動機を原因とした恋愛行動。

 

「葵は……どうかな。恋、しちゃったらもうダメですから」

「そういうもんか」

「恋してると全てが因果関係に見えてきちゃいません?」

「よくわかんねえけど……運命を感じる、みたいな?」

「運命。そうですね、物語になっちゃうんですよ、なんか。別れちゃうと自分が何考えてたのか全然分かんなくなっちゃうんですけど」

 

そしてまた、別れると動機が判らなくなってしまう。「多分、動機なんてのは、それがあってしまうような気がする時にだけ、俺たちの人生でリアリティを持つのだろう。」(中山嵐)つまり、恋している間にだけはじまりの動機がある。恋をする前後に動機はない。この説に従うならば恋愛のはじまりについてあれこれ考えている最中の氷室乃雪や星乃京は現役の恋する乙女である。

 

中山嵐と小松葵のふたりがたどり着くいい関係とはつまり、理由探しを伴わない。

 

「……そうしてみると、こうしてなんとなく出会ってなんとなくここにいる私たちっていい関係なのかも知れませんね」

「そういうもんだろ、友達ってのは」

「友達。そう、そうですね」

 

「夏子を巡る対話篇」と「アストロ滑走団」において、ふたりの関係のはじまりは僕らの意志に先んじて在るものによって支えられている。それはわけもなく出会ってしまうこと、たまたま同じ部活動だったというような所与の状況である。氷室乃雪はこの先行性について「パーティーナイト・2」でも次のように意識している。

 

 ああ、と愚かしくも私はこの時はじめて思い至ったわけである。私も成林女子野球部だと言うことに。彼女が私とこうして話しているのはそれだからで、私が彼女とこうして話しているのもそれだからだ。実に実にシンプルな話だった。

 私は紅葉を抱きしめたい気持ちを抑えて、微笑み混じりに返事をする。

 

「パーティーナイト・2」は大井紅葉と氷室乃雪のお泊まり会における交友を描いた章である。微妙な関係のふたりがその夜、友人みたいに一緒にごろんと寝転がっていることのわけは、ふたりがお互いのことをどう思っているかという以前の、ただ単に同じ部活動だったという点に求められている。

 

「リーディングストーリー光徳学院編」(『花咲くオトメのための劇伴音楽』に収録のドラマ)も「アストロ滑走団」と似ている。

 

 私と築地は、複雑だった。投げやすいセカンドで、頼れる一番打者で、カラオケ一つ一緒に行った事がなかった。

 くすくすと笑い合う。

 それから、部室で後輩たちに送り出されて、一緒にカラオケに行って、バッティングセンターに行って。

 それから。築地とは一度も会っていない。

 

卒業の季節、部活動以外では気心が知れなかった相手との、友人と呼べるかどうか判らないが一緒に過ごすことは出来た三年間が、言葉にするには難しいものの微笑とともに閉じられている。

 

 

4. そして、考えすぎてしまうこと

 

それにしても、君が僕と、僕が君と一緒に居たいということが自ずと明らかであれば、ふたりの関係のはじまりについて改めて考える必要はないのだ。夏葉薫が繰り返し提示するのは、しかし僕らにとってそれが自明でなく不自然なまでに考えすぎなくちゃならない時があるという事情だ。

 

星乃京のCODE-Lのように、恋愛が不自然に立ち現れることは必然、とは確かに言い過ぎかもしれないが、恋愛のコードの学習については『姫さまはプリンセス』でも再び採り上げられている。ブルムランドという国には恋愛に相当する言葉がないため、その王女は不自然な恋愛行動をとってしまう。これは夏葉薫のアイデアかどうかはっきりしないもののCODE-Lの考え方と共通している。

 

また『春萌~はるもい~』の風間沙緒の場合、巫女である自分と神との関係が自明でないために、ブランコからジャンプするという不自然な神事によってそれを問うことになる。

 

「平たく言えば、実験」

「ああ」

「信仰を獲得できるかどうかの」

「君が、てこと?」

僕の言葉に、彼女が無言で頷く。

「それと一人で飛ぶことにどういう関係が?」

「人前で敬虔ぶる事だけが信仰ではないはず。どう考えてもくだらない神事に一人で熱中できるとすれば、それは」

「内面化された信仰のあらわれである、と」

 

恋愛も、交友も、信仰さえも。ならばこのようにしよう。夏葉薫第一のテーゼは「ふたりの関係について不自然に考えすぎてしまう必然」である。

 

しかしこの不自然さは悲しいことなんかじゃない。星乃京の言葉を借りるなら、風間沙緒は自らコードを創り出す。それはブランコから雪山へ向けて顔面ダイブするという不自然な神事、あるいは「コミュニカシオン」という言葉で取り結ばれる恋愛のルールである。

 

「コミュニカシオン」

ルールは単純だ。

コミュニカシオン、と言い続けられる限りにおいて、相手の身体に触れる事が許される。

息が切れたら、それは終わりで、攻守交替。

どうしたら得点なのか、何が勝利条件なのかはきっとおいおい分かるだろう。

僕たちがゲームを始めるために必要なのは、簡単な規則がいくつかと、そしてゲームをする意志だけだ。

「コミュニカシオン」

沙緒さんを引き倒す。

 

理由なんてない。不自然な規則ならばこそ、自分の意志で決めた規則じゃないととぼけることが出来るのだ。

 

夏葉薫第二のテーゼは「関係のはじまりはふたりの意志より先に在るものによって支えられる」ということだ。ふたりの関係を確かめあうこと、それは恋愛であれなんであれ不安なことである。そうした自然のままの自分の臆病さを知ればこそ、自分の意志に先んじて在るなにものかを意識することで不自然に勇敢であろうとする。

 

意志に先んじて在るはずのものが実は自分の意志で生み出されているという回りくどいこともある。そんな人の愛すべき振る舞いがここでは活写されている。

 

さて、「ふたりの関係について不自然に考えすぎてしまう必然」そして「関係のはじまりはふたりの意志より先に在るものによって支えられる」こと。以上でようやく白鳥可菜子を可能とする前提が揃った。『姫さまはプリンセス』の遠藤忍と白鳥可菜子は姉弟のような関係であったとされている。しかし、

 

忍「ボクと可菜子はいつも一緒にいたので、恋人だと誤解されることが多々ありました。」

忍「それにつられてでしょう。ボク自身、その気になったことがありましたが……」

忍「結果は、可菜子の言った通りです。」 (*2)

 

藤忍は姉みたいだった白鳥可菜子に対して、不自然な恋愛行動をとってしまう。一方の可菜子はそれが勘違いだとあらかじめ判っていた。

 

昔、ボクはこの胸に触ったことがある。

あくまで、服の上から。

デートの真似事をして、拙いキスをして。

昔のボクらは、今よりきっとずっともっと不可解だった。

 

その結果、再び姉弟の関係に戻ったふたりは、時をおいて身体を重ね、そして結婚することになる。しかしその関係は恋ではなかった。少なくとも遠藤忍はそう認識していた。

 

ボクは多分、可菜子に恋をしたことはなかった。

可菜子がボクに恋をしていたのかは、わからない。

それでも、ボクらはいつも一緒にいて、寂しい夜には求め合い、楽しい夜にはじゃれ合った。

仲が良くて、セックスをしていれば恋人ではないのか。

懐かしき遠国の姫はそう、ボクに問いかけた。

今は、その答えはわからない。

けれど、恋愛なんて言葉がもしなかったとしても、可菜子とボクは一緒にいただろう。

 

恋愛かそうでない関係であるかはどのようにしてあらかじめ判るのだろう。可菜子にはそれが判っていた。恋愛が意志よりも先に在るさだめに支えられるのだとすれば、恋愛でない気持ちにも同じことがあるのだろう。

 

可菜子「だから……私にしなよ。恋愛と結婚は別だよ?」

可菜子は。

ボクの下で、ボクをがっちりとつかまえている可菜子は、いつになく必死に見えた。

はたから見れば、ボクたちはきっと、果てしなく滑稽に見えるだろう。

一番大切な幼馴染みを組み敷いて、中出しまでして、ボクは焦っている。

可菜子は、ボクを必死に繋ぎとめて、正常位の姿勢のまま、ボクを説得している。

仕方がない。

ボクと可菜子は、こうなるしかなかったんだ。

 

滑稽な、不自然な行動に先行する関係X(エックス)。それが自分たちの関係において正しいと直感されるのであれば、そのままの関係と出会いを所与のものとして歩めばよいのだ。

 

 

 

5. おわりに

 

本稿では「アストロ滑走団」を補助線とすることによって夏葉薫が恋愛と恋愛でないものを描く際に通底するふたつのテーゼを示した。夏葉作品の恋愛は「ふたりの関係について不自然に考えすぎてしまう必然」そして「関係のはじまりはふたりの意志より先に在るものによって支えられる」という主題に対する変奏の1つであり、これによって恋愛ゲームシナリオライタ夏葉薫の射程は恋愛とは名付けがたい白鳥可菜子の場合や同性同士の交友のように恋愛と近接する関係にまでも到達していると言える。

 

 

君と僕、僕と君との不自然なやりとりにこそ幸あれ。

 

 

 

脚注:

 

(*1) 嬉遊曲のなかの「夏子を巡る対話篇 その1」「夏子を巡る対話篇 その2」と名付けられた章を指す。なお「夏子を巡る対話篇」のような章タイトルはシナリオ本文中に出てこないが、該当箇所でのセーブデータ名として示されている。

(*2) なお、本引用部および白鳥可菜子のキャラクター設定そのものについては夏葉薫が関与していない、と夏葉氏本人より御指摘を受けたことを附記する。残りの引用部は白鳥可菜子シナリオ分岐後のもので、夏葉薫独自の展開である。