疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

うた∽かた 第1話

うた∽かた 第1話を再視聴しました。

青年期のはじめに、こころが奇妙に波打つ日々を描いた深夜アニメ作品です。しかしその真摯な中学生の姿と冒頭からちらちら覗く一夏さんの下着がいまいち噛み合わなく思えるかもしれません。15年前の本作品を何度も見た頃にはうまく整合できなかったこのあたりを改めて書いてみたいと思います。

 

見てみるとさて、覚えていた以上に何度も下着が出てきますが、それどころか変身時には裸体ですよね。中学生の話を深夜アニメで描くにはこうした賑やかしが必要なのかしら、と昔は考えていたのですが、いまはだいぶ異なる感想です。 

通常は見えることがないけれど、カメラのアングルで、あるいは超常の現象として描かれるのは、モニタ越しの窃視です。これらをわたしは見ることを強いられています。ところで、見るといえば一夏さんがいつも誰かに見られているのは沙耶さん舞夏さんによる観察に顕著ですが、いっぽう一夏さんが得た神精霊(ジン)の力とは神精霊の視線を借りる形で強制的に現れることになっています。自分では気づかないけれど誰かから見られていること、また自分は誰からも気づかれずに超常の力で見ることを強いられている。見ることと見られることは互いに切断されながらも同時にあることとして、鏡のモチーフを伴いつつ最終話で結ばれます。

青少年が周りと新たに関係を築くとき、相互のコミュニケーションを重ねるよりは、一方的な窃視によって良くも悪くも切り開かれてゆくのは、うた∽かたと同じ後藤圭二・きむらひでふみの制作によるギガンティック・フォーミュラでも描かれていました。常に(トイレの中まで!)監視されている州倭くん、そして共鳴感応装置では相手の心の中をテレパシーで知るのではなく、遠くからただ様子を見るだけ。こうした形が採られた理由はまだよく判らないのですが、ギガンティック・フォーミュラの交差しない視線と一方的なヴィジョンを偏愛する様子は個人的に気に入っています。つまり古典的な映像メディアへの投身こそが周りと切り結ぶことであるといったような。

うた∽かたも交差しない視線の物語ですが、舞夏さんという一方的に見るだけでなく対面もしてくれるひとが傍に居るので、優しい手触りになっています。ギガンティックの真名さんは舞夏さんに近いようでいて、共鳴感応のときは州倭くんと並んで向こう側を窃視してるのでそこが違うかな。

 

さて、物語の水準とは別の賑やかしとして女性のあられもない姿が登場するのは深夜アニメでは珍しくありませんが、うた∽かたは純な心で味わいたくなってしまう話でもあるので、中学生の下着と裸体の窃視を強いられることには通常より居心地の悪さがあります。ここで、一方的な視線によって奇妙に築かれてゆく関係には、気分悪い感じも織り込み済みなのだと思われます。だいたいは一夏さんが可哀相な目に遭うお話、まぁ、悪趣味といって差し支えない面も備えたお話であるので、このモニタ越しの窃視は意地悪な誘いなのだと思いますよ。