疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

君の名は。天体と、古典と。

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まずは、君の名は。初回鑑賞時(2016年9月3日)の感想です。

離れていると名前をよすがに繰り返すことになる。

ノボルくんノボルくん、瀧くん瀧くん。

本人のいない場所で唱えられる愛しいひとの名前を聞いてると、

わたしはどきどきするね。

 

という話は、ほしのこえのDVD版を購入した時の感想が前提でして、

《やはりこの話はノボルくんに会いたいというのが第一である.ノボルくんに,会いたい.先日の携帯電話の件はミカコとノボルの話も込みなのは言うまでもない.電話はせつない.ノボルくんに,会いたい.だいたい電話の形してるくせになんで文字ばっかで声が届かねぇんだよ!

ノボルくんの,声が聞きたい. トリウッドでは色々見落としていたので買ってよかった. (2002年4月27日)》

映画の後に友人と話したこと。民間信仰と現代の希望について。

憑依の血筋が単に東京のイケメンと入れ替わってただけかもしれないというのはエレガントだと話したら、いやこれは男の子がいつだって自分は忘れているかもしれないが夢の中で飛騨山中の巫女さんとして生きている可能性があるという希望に満ちた話だ、とベストアンサーを頂いたのでもうそれでよいです。

 よいです。

・・それはそうとしてですが、

瀧くんのほうは憑依のバックグラウンドを持つわけじゃないので、あの入れ替わりは対称ではないね、という話をした。東京のイケメン男子にしてほしいという叫びもあり、どちらかといえば女の子のほうが男の子のほうを喚んだと思えます。

名も知らぬ何かへのあこがれから出るような叫びが、たくさんのよばい星を従えた、その親玉みたいな大きなほうき星に乗るのだぜ。大気圏の流星がよばい星と呼ばれるならば、宇宙を駆ける彗星はどれほど大きな気持ちを乗せると想像されるのか。

口噛み酒を飲んでからのスペクタクルへの感想はそんな感じです。

流星と彗星の違いについて。なお、「よばい星」とは流れ星の和名で、昔、流れ星には人の恋慕う心を重ねてみる考えがありました。

遠くへ届く方法にはふたつあって、ひとつは星が糸を引いて遠くへ流れ落ちることで、君の名は。冒頭の古典授業を思い出してよばい星などと思うわけですが、もうひとつは自分も遠くにいる人もみんな同じ時間に同じ彗星を見ていたということ。流星は空に留まれないが、彗星ならできる。

流星は三度願いを言う間もなく消えるものですが、彗星の尾はともすれば一晩中見えますね。

彗星の尾と流星の尾は原理的には異なるのですが、大気圏でダイナミックな動きを見せる流星のイメージと彗星の尾をあえて混ぜてますよね。その尾の引く糸の《むすび》として、みなが同じ時間に同じ空を見ていた、その空に留まる彗星の姿があります。

作中、古代の壁画にも描かれた星の尾の絵を美しく思うので、その印象をどうにか言葉するならこのようなところです。

天空に座することないメテオライトは彗星の姿で縫い付けられ、目で見えるはずもない彗星の周回軌道も彗星の尾が流れて天空に描かれてるよう錯覚される(実際は彗星の尾の向きと軌道は異なる)。瞬間で流れ落ちたり、1200年周期で回る時間の定めが、あそこでは絵として描かれてるのだよな。

移動すると判ってるけれど、いまは止まって見えるもの、たとえば惑星もそうですが、定めというのはそういう点と線の想像と、それを関係づける時間をあえて遅く回して眺めたり早回しにして焦ったりすることによって喚起されることがあるようです。

尾だけとっても数日間消えやしない彗星と、いまこの瞬間だけの流星の尾が同じようなふりして描かれてるメインビジュアルは、こうした時間の操作があってマジカルだと思います。

普通?は彗星が衝突するか隕石が衝突するかのどちらかだと思われるのですが、両方を混ぜ合わせたようなあのヴィジュアルになってることが私の興味をひいてるものと思われます。 両者がしっぽで結ばってる絵なのよね。

 

初回の感想は以上のように天体とそのビジュアルについて思うところが多かったのですが、今日、地上波で見た2度目の感想はもっとシンプルなものになっていました。

 

古今和歌集と伊勢物語に採録されている歌に、君や来し(きみやこし)があります。

《君や来し我や行きけむおもほえず 夢か現(うつつ)か寝てか覚めてか》

ある夜に女が男の元を訪れて帰った翌朝、女が男のほうへ送った手紙だと思ってください。昨夜のことは、あなたがわたしの元へやってきたのか、わたしがあなたの元へ行ったのか、よくわからないでいます。加えていうならば、それは夢のことだったのか、実際のことだったのか、眠っている間のことだったのか、目が覚めてる間のことだったのか、それすらもよくわからないでいます。

大意はそんなところですが、解釈はいろいろあります。私は伊勢物語(阿部俊子 全訳注)のほうで読んでいて、そこでは、安易にお付き合いできない身分の男女がそれぞれ思いを募らせた末に起こった出来事となっています。そして、個人的に沁みたのが、《男はたいそううれしくて、自分の寝室へつれて入って、夜中の零時ごろから三時までいっしょにいたが、まだ何も睦言をかたりあわないうちに女は帰ってしまった。》その上で女がさっきの手紙を寄越したところ。

好き過ぎて、思いあまって男のところへ行ったものの、思いが溢れて混乱して、なにもそれらしいことは話せないまま三時間過ぎて、帰ってしまったんですよね、と私は思ってまして。好きな人の居る場所へ向かうときの気持ちってそんなんだよなと。

あちらとこちらという場所の感覚も、夢か実際かという感覚も混乱してしまうことがあるほどに、相手への思いが募ること。会いにゆきたい、だけどゆけない。そして思いあまって会ってみたとしても、何も話せやしなくって。そうした極限の思いを感じるこの歌が私は大好きです。

今日、君の名は。を見たときには、すっとこの歌のことを思い出しました。

 

 (2019年6月30日)