「宇宙よりも遠い場所」では、旅の始まりの地として群馬県館林市に関わる名前や風景がたくさん登場します。分福茶釜で有名な茂林寺、キマリさんやめぐっちゃんの住む町並み、バイト先のコンビニ、キマリさんと報瀬さんが放課後落ち合った城沼の東屋、等々を訪れるファンは後を絶ちません。
私も昨日、館林へ二度目の訪問を果たしました。「訪れてみたい日本のアニメ聖地88」に館林が選ばれたことの認定証贈呈式が、この東屋で執り行われるのに参加したのでした。市としても作品との繋がりをプッシュしてゆくそうなので、今後いっそう訪れるファンが増えることでしょう。
実際の風景は他の場所でロケハンされたものもあります。例えば、キマリさん報瀬さんの通う多々良西高校は、見た目のモデルは桐生市の高校です。しかし、館林の多々良沼に由来する多々良地区(旧多々良村)や多々良駅と同様、これは館林にある架空の高校の名前として設定されていると考えられます。
一方、日向さんの通っていた高校は「羽生第三高校」であることが第6話や第11話で明らかになっています。羽生(はにゅう)とは館林でも群馬県でもなく近隣の市である埼玉県羽生市を指しています。作中に登場する羽生市の風景や、日向さんが群馬から羽生の学校へ通っていた背景については、館林くらしさんの巡礼ガイドと、きたまことさんによる越県入学の話をご参照ください。
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さて、日向さんがどこに住んでいるのか、羽生第三がどこにあるのかについてはここでは深く追いません。むしろこの記事では、館林ではない「羽生」と言う名前がわざわざ採用された背景について書きたいと思います。先に述べたようキマリさんと報瀬さんの通う学校は桐生市の学校がモデルであるにも関わらず「多々良西」という架空の館林の名前が与えられています。では、群馬県民である日向さんを設定するにあたって、ロケ地が羽生であるだけならまだしも、あえて「羽生」という埼玉県の名前が採られたのはなぜでしょうか。「多々良東」でも良かったと思いませんか?
館林の地理的な背景として羽生が近いということがまずは考えられます。近いということは、館林について調べたり、館林に住んだりしたときに、館林に関連して羽生の名前もよく出てくるということになります。
館林くらしさんでは、この地理的な関係を次のように紹介しておられます。
館林市は群馬県の中でもかなり異端の存在で、近隣の市(町を除く)が他県ばかりなんですよね。さきほども述べましたが、館林駅から羽生駅までたったの10分、同じく埼玉県の加須駅まで18分、栃木県の佐野駅までは16分、同じく栃木県の足利市駅までも16分ととてもアクセスが良いです。
羽生駅(埼玉県)、館林駅(群馬県)、足利市駅(栃木県)の関係は後でも述べますのでちょっと覚えておいてください。現在この3つの駅は東武伊勢崎線の一本で繋がっています。群馬県の館林側と埼玉県の羽生とは利根川が自然の境界となっていますが、それでも距離が近いと歴史的に人の交流が続いていたでしょうし、文化や産業も近いものとなります。そうしたなかで、館林と羽生の文化的な共通点とはなんでしょうか?
その答えのひとつが、館林出身で群馬を代表する文豪の田山花袋(たやまかたい)です。田山花袋はもちろん館林で支持され、その名を冠した記念文学館や石碑がありますが、作品のいくつかは羽生を舞台としているため、羽生の地でも花袋の小説は愛されています。
昨日は、館林城址に移築された田山花袋旧居へ立ち寄りました。館林は城下町で花袋の家も代々の藩士ですので、当時の武家屋敷の様子を偲ぶことができます。
旧居では花袋の代表作として「田舎教師」が紹介されています。この田舎教師の舞台が今の埼玉県羽生市となります。花袋の代表作といえば教科書的には「蒲団」も挙げられるところですが、あえて「田舎教師」ひとつ紹介されているのは、東京が舞台の蒲団より羽生が舞台の田舎教師に親しみを覚える地元の心を感じました。実際、田舎教師には明治30年代の羽生の風景や暮らしの様子が詳細に描かれており、羽生は館林同様、城下町を成り立ちとして機織物を産業としたため、当時の館林の様子と深く通じるところがあったのではないでしょうか。花袋も田舎教師のなかで、羽生の城址の風景を何度も登場させています。
花袋が羽生の小説を書いたのは、妻の兄が羽生に居たことが縁となっています。近隣の市における人の交流とはまさにこういうことですね。花袋は日露戦争の従軍記者として前線に赴きましたが、病のため途中で帰国しました。帰国後まもなく羽生の建福寺住職であったこの義兄の元を訪れた際、小林秀三という青年の死を知ります。社会の大きく揺れ動くなか、志を持ちながらも地方に埋もれて亡くなった青年に胸を打たれ、明治30年代後半に生きた日本の青年のことを花袋は小説にしようと考えました。花袋は小林青年の日記を元に彼の羽生での足跡を辿りながら、その短い生涯を田舎教師という小説として書きました。
小説の後半では、病のため思うようにゆかぬ青年の暮らしぶりと、社会の大きな変化が対照的に配置されてゆきます。一つは日露戦争であり、もう一つは東武伊勢崎線の敷設です。日露戦争の遼陽陥落の報に町が浮かれ立つなか、彼の死は訪れます。伊勢崎線はまだ敷設中とされ、羽生の停車場のみ建福寺の裏手に建設されて、彼の死後、羽生から館林を経て足利まで開通したことが描かれます。彼の家庭はかつて足利から荷車ひとつで夜逃げをして行田(埼玉県、羽生の隣市)までやってきました。しかし、鉄道敷設の際、利根川には橋がかかり、羽生から足利までは汽車でおそらく1時間ほどの距離になったのではないでしょうか。大きな鉄の汽車は個人の生活苦なんて知ったこっちゃないという顔をして、人がたよりなく残した轍を踏み砕いてゆくようです。
田舎教師という題は悲しいようにも取れるのですが、青年が教師として羽生の生徒たちに愛された様子にはなぐさめがあります。羽生の人々が田舎教師と田山花袋に寄せる思いについては、羽生市による紹介記事をご覧ください。
館林出身の文豪、田山花袋の作品について追いかけていると、しぜん近隣の羽生市にも辿り着くことになります。よりもいもその制作過程で館林のことを調べるうちに、そんな風に羽生の名前が館林に近しいものとして引っ掛かったのかも知れません。
羽生市へはよりもいの舞台探訪とあわせて、花袋の代表作「田舎教師」の舞台探訪もいかがでしょうか。