疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

ゲームブックの記法について(2)声明の記法

(前回の話はこちら。>ゲームブックの記法について

ゲームブックと楽譜の関係が気になり始めたきっかけはもう忘れてしまったのですが、人が紙を読み進めることで「プレイ」(演奏)される点、そこで記号を用いた分岐や繰り返しの行われるところにいつか共通点を感じたのだったと思います。

 

西洋音楽の楽譜についてはまた改めるとして、今日は先日奈良国立博物館の「お水取り」展を見に行ったときに気づいた声明の記法のことを話します。奈良の風物詩として知られるお水取りですが、県外の人にとってはそうでもないでしょうからまずは簡単に紹介しますね。

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「お水取り」は東大寺二月堂で行われる修二会(しゅにえ)と呼ばれる法会のことで、奈良時代から途切れなく続いています。11名の練行衆(僧侶)が、人々の幸福を祈るため3月1日から2週間に渡ってご本尊の十一面観世音菩薩の前で懺悔をし、連日早朝から深夜まで厳しい行がおこなわれることで知られています。

町の人にもっとも知られているのは「おたいまつ」と呼ばれる火の行で、二月堂の回廊を巡る松明を見るため多くの人が集まります。

 

さて、今日は修二会の懺悔の作法のうち、声明(しょうみょう)と呼ばれる要素を採り上げます。声明は、言葉に節を付けて朗唱することで仏に祈りを捧げる方法です。歌の一種、ということでよいかと思います。ここでは仏を讃えるためにどういった言葉をどういう手順で、どういう節で声にのせるかという作法が細かく定められているので、奈良時代から今に伝わる間に都度、文字として記録が残されてきました。

 

下の写真は、十一面観音のお名前を繰り返し唱えながら礼拝する「宝号」と呼ばれる声明の記録(声明譜)です。漢字のほかになにか階段のような記号の書かれていることが判りますでしょうか?

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二月堂時導師法則(1729年)
奈良国立博物館発行「特別陳列 お水取り」(2022年)より引用

上の紙面の右から4行目は「南無観自在菩薩」と読めます。南無は仏様に対して、心からの帰依致します、ということを示す言葉で、その後に観自在菩薩(≒観音様)という言葉が続いていますね。それぞれの漢字の右側に階段や坂道のような記号(節博士《ふしはかせ》)があって、その字を朗唱する際の音の高低の変化や長さを視覚的に示しています。

「宝号」の声明はお名前を繰り返すところが重要なようです。「南無観自在菩薩」の末尾にある「七反」(七返)とは何でしょう。これは同じ字句を同じ節で七回繰り返して朗唱するという意味です。さらに、朗唱は右から左へと進むのですが、同じ字句の場合は省略して節だけが書かれていることが判ります。

そうすると、ここでは「南無観自在菩薩」を7回、7回、1回、1回、7回、1回、1回、7回それぞれ節を変化させながら繰り返して、次に「南無観自在」を繰り返し、最後に下の紙面へ移動して、「南無観」を繰り返してゆく、という大まかなリズムの流れを読み取ることができます。1回の字句が「南無観自在菩薩」から「南無観」へ向かって短くなるわけですから、どんどん繰り返しのスピードが上がって気持ちが盛り上がってゆくであろう感じも伝わってきませんか。これらを呪文と取れば古密教の影響に触れる必要がありますが、ここでは素朴に当時の音楽的な感性としての躍動感を読み取ることにします。

あと、こうした繰り返しって心に響きますよね、なんでだか。修二会では声明のほかに観音菩薩の周りをぐるぐる駆け回る行もあります。NHKの取材によると50周くらいのようです*1。由来のあることで、またいろいろ解釈を広げることもできそうですが、ここではただ周回することの愉悦として受け止めておきたいと思います。

 

この二月堂時導師法則の宝号には好きなところが2箇所あります。一つ目は同じ字句と節の繰り返しを末尾の「反」で表現するところです。当たり前のように思えますが、声明においてこの「反」の字を読み上げることはありません。これはただ繰り返してくださいという意味で、現代の楽譜における反復記号に近い扱いですね。

書式において、「七反」「一反」という字句は朗唱すべき字句からは少し離れた末尾に置かれ、字も少し小さくすることで、上側の字句とは性質が違うことを示しているようです。ここで一つの紙面に書かれた字句が、ゆるやかな空間的な区切りを伴いながら、別の性質を持っていることが面白いと感じます。一方は実際に声で読み上げる字句、もう一方は読み上げなくて繰り返しの回数を示す制御記号。内容を示す字句と制御のための字句が同じ紙面に混在していることは、前回に挙げたゲームブックの魅力と繋がっていると思えるのです。

なぜこの混在が私にとって魅力的に映るのかはあまりはっきりしないのですが、混在することによって制御記号までもが紙面における「表現」(たとえばレイアウト、筆跡)に参加している点が、一般に制御方法が利用者の目から隠れているコンピュータソフトウェアにおける表現との対照で、面白く感じられている気配があります。

 

2つ目の好きなところは、字句と節を示す記号(節博士)との分離が鮮やかなところです。上では同じ字句が二行以上続くところは省略されて節を示す記号のみが書かれていますよね。つまり、字句と節は完全に分離可能で、同じ字句を使いまわしながら節だけを変更することが出来るということです。

ここでは一般に言語には含まれないパラ言語と呼ばれるところ、例えば声のイントネーションやリズムの情報が言語と分けて表記されている様子がよく判ります。修二会の声明を記した式次第本のうち年紀の明らかなもので最も古いのが1454年の二月堂作法(秀範本)となります。同種の声明譜にもっと古いものは存在しそうですが、私が「お水取り」展で秀範本を見たときに驚いたのは、こんな昔から言語とパラ言語とをはっきり分けることで便利に繰り返しを記述することが行われていたという点でした。

文字コミュニケーションにおけるパラ言語、というのはあまり言われないことではありますが、文字の大きさ、色やレイアウトといったものが、見る人に言語を補うような、ときに言語よりも強い情報を伝えることがあるように思います。コンピュータの世界ではWebにおけるHTML(言語)とCSS(見た目)の分離というような形で馴染みのある考え方で、そうした興味とも通じるところです*2

これはゲームブック的にはどうでしょう。以降は飛躍が大きいかもしれませんが、ちょっと考えてみましょう。ゲームブックでは同じパラグラフを二度以上訪れたときに、プレイの状態によって同じパラグラフが別の意味を持つことがあります。前回話したコンピュータの基本的な仕組みでなぞらえると単に同じアドレスでもレジスタの値によって処理が変わるということなのですが、表現のレベルではもっと別のことが起こっているように思えています。

 

ゲームブックにおいて、同じパラグラフなのに、違って見えるということ。それは「〇〇を持っているなら××」と明示的に描かれることもあれば、過去に訪れたパラグラフにおいて「今後〇〇のあるパラグラフでは、行き先のパラグラフの数字を10増やすこと」というような指示があったことによって、暗黙的に立ち現れることもあります。どういった条件の下で訪れても紙面の上では変化がないのに、訪れるごとに異なる情景が立ち上がりはじめること。わたしはゲームブックにおけるこうした特別な景色の広がり方がとても気に入っています。

 

このことはコンピュータRPGと比べながらもっと具体的に書き留めておきましょう。コンピュータRPGでは、町にいる同じ人の話す言葉がしばらく経つと変わるのをよく見かけます。ここで言葉が変わる理由は主人公たちの持ち物が変わったからかも知れませんし、物語の進行度が変わったからかもしれません。事情はなんとなく予想がつくこともあれば、気まぐれに変わったように思えることもあります。

ゲームブックでは制御の方法が見えているため、町の様子が変わった契機をより明確に示すことができます。仕掛けを頑張って判りにくくすることもできるのですが、判ってしまうほうがむしろ良いこともあるように思えています。そのことを仮に7という数字で示してみましょう。あなたはある素敵な人と一緒にいることになった結果、7という数字を与えられて、以降は町に戻ったときの行先番号に7を足せと指示されました。さて、この人とふたりで見る景色はどのようになっているのでしょうか?

 

町での移動先を示すマップがあったとしましょう。それぞれの建物には番号が振られていますが、あなたがその人と一緒に町を巡るとき、町の景色は一変して7つだけ向こう側の世界を示すようになるのです。その人がくれた7という不思議な数字と、そのひとと一緒だから、そのひとの隣にいるときだけ見えている町の輝きを、わたしは忘れることができません。*3

 

今回はこのへんで。たぶんそろそろ楽譜の話ができると思います。

*1:

https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/pG8yMNylmX/

*2:コンピュータの世界では、言語に伴う声やジェスチャを言語に対してマークアップする試みもありますが、成功をおさめてこなかったように思われます。声の世界については下記のコメント欄の議論を参照してください。ジェスチャのマークアップは主に擬人化エージェントの研究で行われましたが、実用化には至ってないと思います(2022/3/6修正)。

ゲームの動作を記述するスクリプトでは、台詞と音声、しぐさなどを同期させるコマンドが並べられていると思うのですが、これはおそらくですが、マークアップのような宣言的なやり方ではなく、融通の利く手続き的なやりかたが中心ではないかと想像します。ただ、いまのオープンワールドにおける高度な登場人物の動作をどのように記述できるかは全く理解していません。まぁ、なんか判らないことが多いですね。

コンピュータ環境における節博士との類似でのみ言うと、これもあまり詳しくはないのですが、ボーカロイド用のエディタ画面が現代では最も普及した形であるように見えます。

*3:これは、藤浪智之さんの「バニラのお菓子配達便!~スイーツデリバリー~」(角川つばさ文庫、2010年)というゲームブックでの体験を、なるべく謎を明かさないように書いてみました。

ゲームブックの記法について

ゲームブックの表現は多様なので、一般的な様式について語ろうとすると、ああいう表現もこういう表現もあるなぁ・・と立ち止まってしまいます。ただ、そこではビデオゲームに近いことも行われているのではないか、という現代のゲーム観から素朴に導かれるだろう想像は、端的にデジタルコンピュータのアナロジーで説明することができます。

 

コンピュータという機械の基本的な動作モデルは、次のようになっています。

■ まずメモリと呼ばれる空間があって、そこには沢山の区画があり、それぞれアドレス(番号)が振られています。この区画にはそれぞれ異なる命令とデータ(オペランドと呼ばれる)が書き込まれています。

■ プログラムカウンタと呼ばれる場所には、次に実行するアドレスが記されています。

■ 制御装置は、その次に実行するアドレスの区画にある命令とデータを読み出して、命令どおりの処理を実行するよう、演算装置や入出力装置を制御します。

■ このあとは、プログラムカウンタのアドレス(番号)を1増やして、次に実行するアドレスとします。制御装置は、そこに記された次の命令とデータを読み出して、以下同じことを繰り返します。

■ ただし、命令に分岐命令があった場合、次のアドレスは1増やすのではなく任意のアドレスへのジャンプが行われます。

■ 上の命令では、レジスタと呼ばれる場所に演算結果を保存し、のちの命令によって取り出すこともできます。

プログラム内蔵方式と呼ばれるこの仕組みが実用化されたのはわりと昔なのですが(1949年)、現在に至るまでほとんどのコンピュータがこの方法で動作しています。

 

プログラム内蔵方式の実用化が人のものの見方に与えた影響は大きく、それは生活や社会のあり方に限らず表現の世界にも及んではいます。ここでゲームブックのパラグラフ制御とこうしたコンピュータのモデルを直接関連づけることはできそうですが、抜け落ちてしまう部分もたくさんあると思います。紙の冊子体という媒体は例えばページそのものを折りまげる物理表現を伴うことができます*1。制御や記憶装置と表示装置とが分かれているコンピュータとは異なり、ゲームブックはすべてが同じ紙面に含まれているが故に、どこにどういう分岐がある、といった情報を隠すのが難しい、という課題も古くから議論されています*2。ひるがえって、こうした媒体と課題に取り組むためのアイデアがゲームブックの表現に多彩な幅を与えているようです。

 

また、「ゲームシステム」と「表現」とを分けることは難しいと思うため、もうひと巡り回り道したいと思います。先のプログラム内蔵方式が実用化された頃、クロード・シャノンという研究者が表現とコンピュータの関係にも影響する重要な理論をまとめあげました。情報理論と呼ばれるその理論は社会的な一大ブームを引き起こして*3、情報という言葉を従来の「報せ」を指す一般語からコンピュータにも深く関わる言葉へと変化させました。ゲームブックという物語を表現する方法にパラグラフというコンピュータめいた仕組みが含まれていることもこの変化と無縁ではないと思われます。

 

シャノンの研究にはナイキスト、ハートレーという2人の先行者がいます。彼らは電信電話で伝達される人のメッセージから意味を切り離して、定量的に扱う方法を提唱しました。この数えることのできる「情報」がシャノン流の「情報」の意味合いであって、 現在のコンピューティング環境に囲まれた私たちにとって、情報を容易に切り貼りしたり変化させたりできるという情報「処理」の感覚も、 こうしてメッセージを定量化する見方が強く影響していると考えられます*4

 

情報という言葉がコンピュータとネットワークの発展を伴って広まる過程では、連続体として意味をなしていたものを分割して数えられるような形にすること*5、加えてそこでコンピュータが用いるような分岐や繰り返しの処理も、私たちのなかで所与のものとして内面化されていったのではないかと思われます。

 

情報理論では従来は人の表現に関わる領域だったメッセージを数学的に捉える観点を示し、コンピュータで扱える形にしたことが画期的と見られました。シャノンはいったんメッセージから意味を切り離すことでこれを達成しましたが、その後、コンピュータは能力向上とともに取り扱える情報の幅が広がって、コンピュータが意味を理解できるかはさておき、私たちのなんでもない暮らしともSNSやビデオゲームを介して融け合うものとなりました。そうしたなかで、ゲームをゲームシステムと表現の2つに分かちがたいと思えることは、表現者も私たちもコンピュータの仕組みとシャノン以降の情報のあり方を当たり前のように使いこなしている背景があるのではないでしょうか。

 

さて、コンピュータの話とシャノンの話で2度の回り道をしました。この話の終着点を確認しておくと、ゲームブックの記法において、人が普通に読める文章や記号で記述されていることと、たくさんの断片に区切られていることのおもしろさを言葉にしてゆきたいと思います。

 

プログラム内蔵方式に至る思想や歴史はほかでたくさん議論されていますが、私にとってのゲームブックの魅力に触れるには方向が違うようです。コンピュータは後の文学への影響もあって、これは時々触れるかもしれません。人にとって繰り返しという構造を記述することは、古くから声明の記録や楽譜において行われ、後には戯曲でも見られました。こうしたことは私をわくわくさせます。文章をたくさんの断片に区切って手繰ることは、カードと呼ばれる媒体から短冊、冊子体、またその番号の振り方、手繰り方という話題があって、底の見えない感じが強いです。わたしの好きなゲームブックや、これらと話題を同じくするビデオゲームのことも採り上げながら、以上のようなことを綴ってゆきたいと思います。

 

 

不定期に続きます。

 

*1:フーゴ・ハル「迷宮キングダムブックゲーム モービィ・リップからの脱出」2010年

*2:門倉直人「ゲームブックシステム講座(1)~パラグラフのジレンマ~」ウォーロック 1986年12月01号

*3:日本では1960年代の情報産業論、情報化社会など

*4:メッセージの定量化と情報理論との関わりについては、ジェイムズ・グリック「インフォメーション 情報技術の人類史」が詳しいです。

*5:ここは「デジタル化」と安易に言い換えないようにしてほしいと思います。

グッバイ、ドン・グリーズ、思いを馳せる道具

これは「どこでも・もしもボックス」だなぁ、というのがキービジュアル第一弾を見た時の正直な感想でした。いしづか監督はドラえもんが大好き、ということを踏まえた連想で、どこでもドア的には遠いところをつなぐような何かで、もしもボックス要素はなんじゃろな、という感じでした。

 

ドラえもんの時代からみると現代のスマートフォンというのはひみつ道具に近い存在となっています。トトのスマートフォンにちょっとした間違いが起こったとき、つまりアイルランドとアイスランドを勘違いしたことによってあの電話ボックスにつながるというのは、うまい感じに踏み外されてるなぁと思いました。

 

ドロップがトトの間違いに気づけば、彼は国番号を変えてアイルランドに居るチボリへ電話をかけることができます。チボリにさえたどり着けばドロップはロウマの住む場所へゆくことができます。わたしはそういうことだと考えますので、電話ボックスがなぜあそこにあるのかというのは、日本の同い年の少年たちがどういうわけで電話をかけてきたのかついてドロップが思いを馳せることで、そして行動することで、世界の果てと果てとがつながってゆく、そうした気持ちに支えられた描写だったように思います。

 

蛇足ながら。

グッバイ、ドン・グリーズ!

漫画で子供たちのからだが吹き飛んでゆく様子を、わたしは、体重が軽い、と呼んでいます。

登場人物の体重が軽い.くるくるころころと宙に舞う.いいトコロなのに雪から足だけ出して埋まってる人体とか力が抜けてて良い,表題作が好き.雪ん中ないかな,二人でスコップ. (2003/3/1)

むかし、セツナカナイカナ(こがわみさき)という漫画の感想でこういうことを書いたのは、じっさいありえない感じでくるくる吹き飛ぶ彼ら彼女らの体のことをかろやかに感じるとともに、心配する気持ちも半分ありました。子供はいともかんたんに転がってゆくものですが、それはぜい弱さと紙一重であるようにも思うのです。紙風船はころころ転がるけど手でぺしゃんとできちゃう、あの感じ。ころころ跳ねるものは脆い。

 

ドン・グリーズのころがり具合はけっこう凄いのですけど、ロウマが渓流のウォータースライダーを二周目しようとしてたところで、あっ、これはあの、体重が軽いやつだなぁ、と思ったのでした。おもちゃみたいに、冗談みたいにころがす、ころがってゆく感じ。だけどそれが脆い。

 

木の実のドングリをモチーフとして採るなら、それは固いイメージかもしれません。映画を見終わったあとにいしづか監督のインタビューを読むと、《彼らの体はスーパーボールみたいなんです。》とすら仰っています。小さいころスーパーボールを壊そうとしたことがあるのですが、ダメでした。あれはぜんぜん壊れません。

 

<グッバイ、ドン・グリーズ!>世界と自分を対峙させる 「よりもい」で描けなかったテーマを深掘り いしづかあつこ監督インタビュー(MANTANWEB) - Yahoo!ニュース

 

監督は《リアルな重力感を見せるよりも、》という書き方もされてますので、跳ねる様子を重力と考えるか体重と考えるかでだいぶ違ってくるのかもしれません。アニメーションとして見るとなるほど、重力感のコントロールというほうが適切な動きと思えたのですが、ここは自分がはじめに受け取ったことなので体重の軽さのほうを採りたいと思います。

 

わたし流の言い方で、体重の軽さ、ということですが、これがむしろ生死の境界を感じさせました。劇中で元気に軽やかにころころと跳ね回る15歳の彼らは、一方で自らも周りもその体の異常に気付くことのできない脆さを備えている、ということはトトがドロップの健康について語るなかにもあったと思います。

 

いしづか監督作品では登場人物たちの走ることがよくクローズアップされます。プリンス・オブ・ストライド オルタナティブはパルクールを題材とした作品なのでもともとひやっとするような走りが多いなか、第4話ではメンバーのひとりがリスクの高い段差を選んで大ケガをする様子が描かれました。ただし彼は彼として生きるためにけがを負ったと言えるので、かえって生命的であった、とも感じられます。

 

わたしのいう体重の軽さと繋がる生死は観念的なところにあります。グッバイ、ドン・グリーズ!は序盤からあまり弔意を隠すところのない作品だったと思いますが、後半でじっさい旅に出るまでもなく、というか、わたしはアイスランドへ行かずに終わると思っていたくらいでしたが、そしてふたりのではなくあえて三人の、としますが、その鎮魂の旅路はすでに始まっていたと思える作品でした。

 

(2022年2月18日鑑賞)

【星影拾遺・2021冬】おでかけ結月さんキット

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コミケC99は実際に開催できてなによりでした。わたしのほうは再び東京で同人誌を出す準備が整いませんので、勝手にエアコミケ?みたいな形でネットでの参加とさせていただきます。

今回の作品は「宇宙よりも遠い場所」(よりもい)の白石結月さんをネットプリントして、いろんな場所を旅していただこう、という企画です。

わたしが東京から地方へと帰って、また人間の移動に制約の生まれがちな世情ともなりましたが、ネットプリントを使えば全国へ作品をお届けすることができるんじゃないかなと。そして、よりもいのメンバーが残してくれた、人はどこへだっていけるんじゃないか、という気持ちを形にしたいと思ったのでした。

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作品は表裏2枚組で、それぞれに工作が必要な枠あり版と、そのままで使う枠なし版があります(つまり絵柄は全部で4種類です)。

 

■ 枠あり版(右側にある絵が表、左が裏)

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結月さんの周りに切り取るための青い枠線が引かれています。ご自身でカッターかデザインナイフで切り抜いてから、表と裏とを貼り合わせてご利用ください。

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そのままでも良いですが、何か棒があると持ちやすいと思います。わたしは百均で木製のコーヒーマドラーを見つけてきて、木工用ボンドで貼り合わせました。

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洗濯用のクリップで挟んで持ってもよいと思います。

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■ 枠なし版(右側にある絵が表、左が裏)

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こちらは枠がありません。うさぎさんといっしょにそのままご利用になれます。

カッターで切るのはちょっと苦手という方も。

プラスチックのケースに表と裏を両方いれることができますので、これをくるくるひっくり返せば枠あり版と同じような感じになります。天候が悪いときにもこちらがよいですね。

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こんな感じ。

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さて、今回の頒布方法はみなさま最寄りのコンビニに設置されているコピー機で印刷していただく形となります。わたしがコンビニにデータを登録していまして、みなさんがコンビニへ手数料を払って印刷して、わたしのほうへは特にお金はやってこない ^^; という方式です。いつまで印刷できるかの期限日がありますので、以下注意してご利用ください。

 

絵柄は4種類ございますが個別に印刷するようになってますので、必要なものだけプリントしてください。また「セブン-イレブン」と「ローソン・ファミリーマート・ポプラ」では印刷できる用紙が異なるのでご注意ください

 

【おしながき】

 

■ セブン-イレブン向け「おでかけ結月さんキット」

【期限:2022/01/05 23:59  まで】

【用紙:はがき(1枚60円)】

【使い方:ネットプリントの使い方|セブン‐イレブン~近くて便利~

【予約番号】上記の使い方のStep2 以降を読んで、下記番号をご入力ください。

・枠あり・表    24009772

・枠あり・裏    71826672

・枠なし・表    08744154

・枠なし・裏 71589811

■ ローソン・ファミリーマート・ポプラ向け「おでかけ結月さんキット」

【期限:2022-01-06 14時頃まで】

【用紙:L判(1枚30円) 2L判(1枚80円)】

※はがきと比べてこちらの写真L判、2L判は薄くて曲がりやすいため、切り抜いて使うには向いていません。枠なし版をプラスチックケースに入れて用いるか、切り抜く場合は厚い紙に貼ったりして強化することをおすすめします。

【使い方:ネットワークプリントサービス

【ユーザー番号】上記の使い方を読んで、「3 ログイン」画面で、下記ユーザー番号をご入力ください。

・枠あり・表 EPJFK5MN8X

・枠あり・裏 Y3YAX2JMGC

・枠なし・表 4CWQBJHNWK

・枠なし・裏 WE3APBJ7QM

 

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結月さんの旅をいろんな場所で写真におさめて頂けると嬉しいです。写真をご自身のSNSに載せていただくのもOKです。

 

ではまた。

 

「おでかけ結月さんキット」

発行日  : 2021年12月29日

サークル : 星影拾遺

制作・発行: ソガ(曽我十郎)

twitter  : https://twitter.com/canalsphere

 

ヴィネットの子たち

リヴリーのこちらの絵(スクリーンショット)がたいへんお気に入りです。下に降りてるのですよー!・・と言って伝わるでしょうか?

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リヴリーはヴィネットの世界をつくるアプリで、台は立体を斜め上から見た角度になっています。ヴィネット風のイラストというのはおよそこういう角度でいろんなアイテムを生け花のように寄せた絵のことで、生き物が主役の場合は台の上に乗せるとおさまりが良くなると思います。

 

それで、動かせないアイテム(お花とか壷とか)たちは立体を表現するよう自動的に配置されるのですが、生き物のひとたちは画面のどこにでもおけるので、たとえばこういう一見はんぱなところにも置けちゃいます。

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お行儀よく置くとこんな感じで、わたしが手で動かさない限りはだいたいこのへんに居るようになっています。

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この子たちを台から降ろすことができると判ったとき、ヴィネットの立体的な構成を超えてどこでも行けるんだということにはっとさせられたのでした。

 

ちょうどこの10日ほど前に自分でもヴィネット風のイラストを描いたばかりだったので、なおさらどきっとしたという面もあります。それは宇宙よりも遠い場所の日向さんのお誕生日イラストでした。ヴィネットのごしゃっと寄せられた印象が好きだったから自分でも初めて描いてみたもので、改めて他の人が描いたヴィネット風イラストをいろいろ眺めるところから始めました。

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ヴィネットについてもう少しくわしく言うと、模型におけるヴィネット(小型のジオラマ)風に描いたイラストをそのままヴィネットと呼ぶ場合があるという説明になります。従来、図画におけるヴィネットとはブックデザインにおける小さな飾り模様であったり、絵や写真の周囲をぼかした表現を指しましたが、これが転じて模型では小型のジオラマを指すようになり、ついには再び図画のジオラマ風のものを指すようにもなってきています。これは一般の辞書にありませんが、例えば pixiv でその用例を見ることができます。 

dic.pixiv.net

www.pixivision.net

ヴィネットではジオラマの要素を小さく寄せてまとめるので、実際的な空間の繋がりを超えてたくさん要素を盛り込む傾向があるとは思います。一方それと同時に図法上の共通点としては何らかの方法でもって立体的であろうとしているように見えます。透視投影を用いないほうが小さくちょこんとした感じがでるので軸測投影と呼ばれる方法に近い描き方が多いでしょうか。いずれにせよ寄せ絵のために図学的な規則には縛られない立体表現である感じがします。

なお、リヴリーもわたしの絵もヴィネットのなかでは規則寄りなほうだと思います。リヴリーの台上はバランスよく描かれた二等角投影図(軸測投影図の一種)に沿っていて、アイテムを置き換えてもレイアウトが崩れにくい工夫を感じます。わたしの日向さんは初めてなので描きやすいかなという理由で等角投影図(アイソメ。こちらも軸測投影図の一種)という建築イラストや8bit風ゲームでよく使われる方法を採りました。

 

ここで思うのは、図学に縛られない自由な絵でありながらも共通して立体的であろうとしているヴィネットにおいて、リヴリーの子たちが台を降りてきてくれたのは、やはりわたしがこうして考えていた枠を超えていて、そこに愛おしさを感じるということでした。

 

念のため確認しておきたいこととして、ひとつの絵のなかに立体的な、たとえば下の絵ではアイソメで描かれた東屋、とあまり立体的とは言えない感じの人物の顔と、さらにいえば書き文字なんかもごちゃっと混在した構成を取れる、そういうことは普通で、先のリヴリーの画面もパラメータやボタンも併せてひとつの絵を構成しているとは言えるのですけれども。

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しかし、リヴリーのヴィネット風イラストという感じに注目したとき、 その立体とそこから立体的でない方法でちょこっと降りてきた子たちの様子がすごくよかった。

 

個人的には20年ほど前に話題となったフィギュアのリカヴィネで模型のヴィネットという言葉を知りました。リカヴィネはイラスト少女のかわいらしさをフィギュアのヴィネットへ写し取っていたものと記憶しています。もしかするとヴィネット風イラストというのは、イラストのかわいさを写し取った模型のヴィネットのかわいさを再びイラストへ写し取るような往復がおこなわれているのかもしれません。

 

インベントリと彼方の箱

わたしのインベントリ画面を更新しました。箱16から箱18までとそのほか下に載せたあたりです。

図書館から(9/1まで)
箱16
箱17
箱18
自室三段BOX中段
自室机上
自室黒猫紙袋

 

 

作業を終えるたびに未整理の荷物はあと5箱くらいかなという感覚でいますが、今回数えたらあと10箱ありました。自分の荷物の量を数えるのは苦手で引っ越しのときいつも困ります。

sosuisen-mybox.netlify.app

 

アイテムの種類と数が多い割にはインベントリを開く機会がないし、そもそも開くボタンが奥のほうにある、というゲームに幾度となく出会っています。育成対象の種類とその属性が増えるにつれ対応するアイテムも増えてゆくのですが、ゲームのほうで文脈に応じていま必要とされるアイテムの数と現在の在庫だけを提示してくれるので、わたしのほうでごそごそと倉庫ぜんたいを漁る必要はなくなっている、ということのようです。

 

ここで倉庫と言い換えましたが、インベントリという言葉は物品その他資産の目録を指すのであって、物品そのものや保管庫のことをいうのではありません。もともとは海外のゲームで聞いたのが初めてだったと思いますが、歴史的なものなのでしょうか。目録とは大量の物品の整理や実物を持ち歩くと不便な場合に作るもので、リュック一つで旅してるときにはいちいち目録は作らずにごろっと「やくそう」を入れておく感じがします。

 

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IDOLY PRIDE の所持品リストを開いてみると、別ページにリストアップされているアクセサリが所持品には含まれてないことに気がつきました。合成などで変化するアイテムは効率的に操作できる専用ページを持っていて、所持品としては特に変化しない消費財のみが配置されているのですね。ここでもう所持品から飛び出したアクセサリとは、目録上の操作だけで完結する手形のような側面が強くなっています。こういうことは特にインベントリ的な振る舞いであるように思えます。

 

もうひとつ、試みにインベントリ的・・と呼んでみた目録上の操作を挙げたいと思います。ブルーアーカイブでは生徒さんがそれぞれ装備品を持っており、これも上のアクセサリ同様、全体のアイテム欄には記載されない品となっています。装備品には素材を消費して Tierアップ(レベルアップ)する仕組みがあって、例えばマシロさんがかぶった「無地のキャップ」は「ニット帽の設計図」という素材15枚と合わせることによって「ニット帽」になるといった変化が起こります。

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一般に素材アイテムの合成を経て別のアイテムが生成されるとき、素材となったアイテムのほうがなくなることに不自然はないのですが、ここでは画面下のTIPSにある「装備していたアイテムはTierアップ時に、自動的に次のTierのアイテムへと置き換わります。」という感覚に注目したいと思いました。これはシステムとしてそのように動作することがそのまま書いてある(あるいはそう翻訳されている)のだとは思うものの、アイテムが物品として消費されるというよりは、置き換わってしまうニュアンスが前にでているようで、それは物品はそのままに目録だけを書き換える操作であるようにも思えるのです。装備品は全体のアイテム欄に含まれないため置き換えられた Tierアップ前の装備は二度と取り出してみることはできないのですが、マシロさんはもうかぶらなくなった無地のキャップをどこかへ大事にしまっているのかもしれません。

 

ここまでインベントリ的という言葉はじっさいの物品とその目録とをいったん分ける意図で用いてきました。ゲームにおけるアイテムの提示は、いくらかの度合いで目録のようであったり、そうでなかったりするようです。目録は効率的な処理に適しているのでプレイヤーのクイックな操作感にも響いてそうだな、というのが今回おもったことではあるのですが、目録というのはずっと慣れ親しんできた別の側面を伴っていることも思い出しておきたいと思います。

 

まずは同じくブルーアーカイブからアリスさんの装備品を見てみましょう。ここにはアイテムの箱書き、あるいは書付ともいうべき解説文があります。(個人的にはアイテム文として飯塚さんが日頃言及しておられる話題が想起されることです。)

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誰が書き残したかは判らない書付です。アリスさんではないし、先生さんかどうかも判らない、またそういう風に具体的に求めることはできないのかもしれないです。ともあれ、こうした文も物品を言語的に表現する目録としての度合いから生まれているように思われます。目録の機能を保ったまま肉付けを試みるならば、それは物語と呼ぶにははるかに短い書付となるのではないでしょうか。交通安全のお守りを「振ってみると、中からジャラジャラという金属っぽい音がする。」という短文に触れるとき、その行為主の姿が一瞬見えたようで、やはり手が届かないという驚きがあります。お守りの中から音が聞こえてくるという素朴な可笑しさもあります。ただ、この書付がわたしの中に深くしみわたったあとで、じっさいのお守りが物品として遠く思いを馳せるものとなったのも確かでした。それはたぶん、どこかの箱のなかで大事にしまわれているのです。