疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

2018年冬コミ(コミックマーケット95)情報

個人サークル「星影拾遺」は残念ながら落選しましたが、きたまこと様のご厚意により今回の冬コミ会場にて委託で新刊を頒布させて頂きます。

・委託先:1日目《12月29日》土曜日 東J27b  きたまこと事務所

 https://webcatalog-free.circle.ms/Circle/14228264 

・きたまこと様のスペースへお立ち寄りのついでに、こちらも手に取って頂けると幸いです。スペースでは私も売り子をさせて頂く予定ですので、会場にてお待ちしております。

(12/24 追記)

・本誌には付録を同封して頒布します。付録は当初たんなるおまけのつもりでしたが、だいぶ個人的な魂の注がれた内容となりましたので(読者の方にはもしかしたらピンとこないかもしれないマニアックなものなのですが・・)、少なくとも初版分は通販のほうにも付けます。

・会場へ早くにお越し頂けた場合、なにかお礼ができたらいいなぁと考えております。いまのところ手描きのポストカードを用意してますので、もし欲しい場合には仰ってください。

 

2018年冬コミ新刊「サウスポールを探しに」

 

f:id:kgsunako:20181206190116p:plainf:id:kgsunako:20181206190250p:plain

■ 宇宙よりも遠い場所(よりもい)の小説、エッセイを中心としたファンブックです。 

 私がよりもいに触れた日々の中から、星や夢、夜と言葉、季節、水辺に関する美しい要素を拾い上げて一冊の本に綴り合せました。

 よりもいってそんな話だっけ?と思われるかもしれませんが、「まぁいいじゃん、それも《よりもい》だ」 と南極よりも広い心で受け止めて頂けると幸いです。

■ サークル名「星影拾遺」(ほしかげしゅうい)

■ 形式はB5オフセット、44ページ

■ 目次

【小説】
 真昼のアステリズム
 (書き下ろし11ページ。結月視点で進む南極と星についての4人の雑談です。)


【エッセイ】
 宇宙よりも遠い場所から見た宇宙

  (南極から見える星の話です。)

 南極望遠鏡について

  (実際の南極望遠鏡計画とよりもいの小淵沢天文台の関係について。)

 手描きの世界から

  (日向さんの手描き絵に対する私の愛情。)

 あさっての季節

  (よりもいの季節感について。)

 宇宙よりも遠いファンタスティック

  (よりもいで描かれる夢みたいな場面について。)

 白石結月さんと夜のヴィジョン

  (結月さんの見る美しいヴィジョンについて。)

 メッセージ

  (キマリさんの詩情あふれるモノローグの起源を探ります。)

 宇宙よりも遠い水辺

  (よりもいで描かれる水辺の風景について。)

参考資料
私説・南極チャレンジ年表
あとがき・奥付

 

目次は以上です。あとはイラストや図版が大小あわせて十数枚。

エッセイは8篇。書き下ろし3篇とWebで既発表の文章5篇を最新情報にアップデートしたものです。

私説・南極チャレンジ年表はちょっとした付録のつもりがだいぶ頭をひねることになりました。第1次南極チャレンジ隊から小淵沢天文台の完成までの出来事を時系列で収めています。

 

さて、どうにか一冊の本ができました。心血注いで本を制作できるチャンスというのは限られていますので、今回、冬コミの機会を頂きましたきたまこと様には改めて感謝申し上げます。

 

これからどんどん寒くなって参りますが、皆様どうか当日はお気を付けて。

それでは、年末に有明でお会い致しましょう。(2018/12/6)

 

さし絵の昼と夜

 

ニレの木広場のモモモ館 (ノベルズ・エクスプレス)

ニレの木広場のモモモ館 (ノベルズ・エクスプレス)

 

「ニレの木広場のモモモ館 」は壁新聞をつくる子供たちのお話で、千葉史子(ちかこ)さんの可憐なさし絵をふんだんに見ることができます。壁新聞というのはなるほど、思い思いのイラストが散りばめられているものではないでしょうか。おそらく元が朝日小学生新聞の連載なので毎回さし絵があって、単行本にもそのまま掲載されているためだと思われますが、まずは私の目を大変よろこばせてくれます。嬉しい!

それぞれ感想を書きたいくらいのさし絵なのですが、1枚えらぶならこれ、という絵だけ紹介したいと思います。とはいうものの、私がなぜその1枚が好きかを説明するにはいくつか他の作品も参照しながら前置きをする必要があります。

わたしは夜中に何かをしている子供を描いたモノクロームにいつも惹かれます。

月夜の空を黒い服の魔女と黒猫が真っ黒のほうきで飛んでいる姿を想像してみてください。彼女たちはどんな「色」をしているでしょう。そして、その様子を黒と白だけで描くならどうなるでしょう。これは角野栄子「魔女の宅急便」の一場面で、林明子が実際さし絵として描いています*1。ペン画は通常、白い紙に黒いペンで輪郭線を描きます。では、黒色で覆われた夜空をゆく黒魔女さんと黒猫さんの輪郭はいったい何色で描きましょう。

夜の闇は普段みなれた黒い輪郭線を隠して、別の方法で絵を見るように求めてきます。例えば、夜には人物の輪郭線を白色で示す、という表現がありますが、ひと続きのさし絵のなかで白と黒はそんな簡単に裏返っていいのかという驚きがあります。

当たり前のことをことさらに採り上げてると思われるかもしれませんが、これは林さんのさし絵を見たときにものすごく美しいなという思いと「夜空を黒魔女と黒猫が飛んでいる」という言葉が同時に浮かんで、その言葉の黒々としたなにも見えないイメージに反して、じっさいの絵では二人の姿を確かに認められることに感動したのがきっかけでした。以来、私はそんな風に絵が黒く覆われた夜、そこに人物のような姿を認めたときに、本当は見えないはずの人がそこに見えているかのような不思議を感じます。

では林さんがどのように表現されていたのか、それは概ね白の輪郭線という範疇かもしれませんが、闇の表現は絵描きさんそれぞれに味わいあるところなので実際に本のほうを読んで頂けると嬉しいです。

魔女の宅急便 (福音館文庫 物語)

魔女の宅急便 (福音館文庫 物語)

 

闇のさし絵についてもう一つ紹介したいと思います。天沢退二郎「光車よ、まわれ!」(筑摩版)のさし絵は作品の暗がりを受けて黒々としています。これは司修の版画かスクラッチ画で、おそらくはスクラッチだと思います*2

スクラッチというのは原理としては黒く塗られた板の表面をするどい道具で削ると下地の白や他の色が現れるというもので、みなさんも子供の頃クレヨンでやったことがあるのではと思います。版画とスクラッチを出来上がりで区別するのはたぶん難しいですが、制作過程はだいぶ違っていて、版画は制作中に見える色と実際に刷る色が異なるものですが、スクラッチは制作中に見える黒地と掘った先に現れる色がそのまま出来上がりの色となります。例えば作中、国立図書館の夜間閲覧室(なんて素敵な響き!)の奥にある古文書室(!!)を子供たちが訪れる場面では、そのさし絵はたとえ室内灯があるのだとしても暗がりであってほしいもので(なにしろ図書館で夜で古文書ですから)、まさにその暗い部屋で光車をあらわしたあの古文書の絵は、闇色の板からスクラッチで掘り出した光として制作されたものだと、どうか想像してください。

スクラッチは闇から光を、あるいは闇から闇を掘り出します。夕闇の古工場で、龍子さんの広げたスカートの絵は夕闇よりも暗い、黒い鳥のように見えましたね。《黄昏よりも昏きもの》と唱えた人もいましたが、スクラッチは闇色から闇よりも深い黒を掘り出すことが出来るのでした。

光車(ひかりぐるま)よ、まわれ!

光車(ひかりぐるま)よ、まわれ!

  • 作者: 天沢 退二郎
  • 出版社/メーカー: ちくま文庫
  • 発売日: 1987/5
  • メディア: 文庫
 

さて、そもそもですが、夜中に街の暗がりで子供たちがなにかしてる、というだけでも好ましいものです。普通は外へ出してもらえない時間に外にいるというのは特別なことであって、魔女の宅急便のキキにとってそれは故郷から旅立つ夜でした。あるいはそれは光車の秘密に触れる夜でした。そして「ニレの木広場のモモモ館 」で描かれたのは、子供たちが夜の集会を抜け出して、暗号が示した地面を掘るというものでした。

それまでの昼間の絵から一転、絵は夜を迎えて、なかでも暗がりに描かれた四人の子供の四つのかたちに惹かれます。私は秘密を覗いている。その秘密は黒いペンで描かれていて、黒で描かれた夜の闇と、同じく黒で描かれた子供のかたちはしかしお互いに混ざり合うことはなくて、そこで行われている秘密を私に伝えてくれます。黒色は何も見えなくて秘密なのに、なぜだかその秘密は私にだけ見えているような、そういう感じがするのでした。

「ニレの木広場のモモモ館 」の壁新聞は、新聞づくりを通してかえってナイショの出来事が増えてゆきます。ナイショの出来事は結果として明かすことになったりナイショのままにしたり、ナイショであることを知らぬままに終わったりするのですが、ナイショをいろいろ取り扱うことが創作する心や創作を鑑賞する心を伴う様子は、作者高楼方子がこれまで創作を描いてきたことのまた一部を為すものと思いました。そして、そのあらわれとしても、ナイショで掘り返された夜の地面の絵のことは深く印象に残るのでした。

 

(2018年10月21日 疏水太郎)

*1:私がのちに原画展で見た感じでは、こちらの絵はおよそピグマペンの黒で描かれているように見えました。白は塗り残しによる表現もあれば、白いインクを使った箇所もありました。

*2:版画とスクラッチ画を見た目で区別するのは難しいように思います。ただ、司修は1969年に「宮沢賢治童話集」(実業之日本社)の表紙とさし絵を描いており、これはスクラッチで描かれていたようです(「絵本の魔法」内容紹介文より。https://www.amazon.co.jp/%E7%B5%B5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%AD%94%E6%B3%95-%E5%8F%B8-%E4%BF%AE/dp/4560083177 )。光車の初版刊行は1973年。天沢退二郎といえば宮沢賢治ですので、宮沢賢治童話集のスクラッチを見て司修に同様のさし絵を依頼した、というのが私の想像です。

宇宙よりも遠い水辺

f:id:kgsunako:20181204204358j:plain

 

「宇宙よりも遠い場所」(よりもい)第1話の水の風景が好きです。私はいつも水や星や夢のことばかりですが、よりもいの星と夢の話はこれまでに書いたので、今回は水の話をしたいと思います。

※最終話までの内容を前提としていますので、最後まで見ていない方はご注意ください。

 

1.水辺のこと

まずは、耳を澄ませましょう。「宇宙よりも遠い場所」の第1話が始まると、ほら、すぐに汽笛が聞こえてきますよ。ボーッと港じゅうに響くのはきっと船が出る合図でしょう。

出港の汽笛はまだ控えめに聞こえてくるだけですが、これから船の物語が始まるような感じを受けます。南極観測船のしらせ5003、のちのペンギン饅頭号が物語の舞台となるのは第7話と8話、9話、あとわずかに13話といったところですが、それでも船にはシリーズを通した存在感があったと思います。第1話の冒頭で汽笛は船の気配を伝え、呉港に停泊するしらせの舵のカットを経て砂場の笹舟へと繋がってゆきました。キマリさんのモノローグのなかで笹舟は「走り出す」そして「動き出す」力を伴っていて、とりわけしらせのような砕氷艦は「赤道を抜け、嵐を抜け、氷を割」ってまでして南極を目指すことが、報瀬さんの語りとして最後に示されました。

よりもいでは船の泊まる港も続々登場します。第1話では呉港が目的地でした。第5話では出港地となる東京港晴海ふ頭で4人が収録を始めました。第6話ではシンガポール港の夜をみんなで眺めて、第7話では乗船地フリーマントル港が舞台でした。なかでもシンガポール港の夜景に思いを馳せる4人の様子は神妙で、本作品の港は外へと広がってゆく世界を想像できる特別な場所として描かれています。

船と港のことを考えながらまた第1話のはじめに戻りましょう。呉港の風景と出港を告げる汽笛、いつか飛び立つ鳥たちの姿、停泊するしらせの喫水線、砂場の水に浮かぶ笹舟、そこに重なるキマリさんの声は、幼い頃の砂場の思い出を語っているように聞こえます。強い日射しに半袖、帽子の装いは真夏でしょうか。「よどんだ水が溜まっている。それが一気に流れていくのが好きだった」というモノローグ、そしてこの過去形の思い出を優しく撫でるようにストリングスが演奏されます。絵や音、言葉や声が巧みに組まれた導入は叙情的で、よりもいのシリーズ演出における感傷の度合いをあらかじめ示しているようです。

ここで私が惹かれたのは、船を取り巻く水面のきらきらした様子です。よりもいは群馬の街から始まるため海は遠いのですが、それでも第1話には水の風景がたくさん盛り込まれていました。始まりのカットは春の淡い光に満たされた呉港で、海面は日光をしらせの船体へゆらゆら描いて、幼かったあの夏の日の水溜まりに太陽はまぶしく反射して、光が笹舟とともに流れ出します。船は水とともにあって、季節も時間も超えて、かつて遊んだ砂場の水もいま目の前に広がっている海も、その反射光で船体を照らしています。「宇宙よりも遠い場所」は出港の汽笛から始まる物語で、それはキマリさんと報瀬さんの旅立ちの予報であって、ふたりの門出は光で祝福されているというその構想が、第1話の冒頭に美しく描かれているのだと思います。


2.雨の日のこと

祝福のある描写から一転、プロローグのキマリさんは手帳を読んだら大泣きで、第1話において彼女が埋めるべき落差が示されました。キマリさんはこの落差を見つめて、幼い日に好きだった水の「走り出す」ような力をたぐり寄せてゆきます。ここではキマリさんの体験した雨の日の美しい情景を追いながら、報瀬さんと出会った巡り合わせについて話をしたいと思います。

キマリさんが学校をサボって出発しようとした朝は雨でした。なにも出発は晴れの日でなくとも良くて、雨の日というのは雨の日なりに旅立ちの雰囲気をまとっているものです。彼女も雨だからという理由で玄関から出ることをためらいはしませんでした。

この雨の朝は、水琴の音から始まります。遠く茂林寺に降る雨は信楽の狸を叩いて琴のような音を奏でています。この分だと参道に並ぶ狸たちは分福茶釜の大合奏かもしれません。雨の日には弱い光と水靄で視界はぼんやりして、その代わりにいつもと違う音が聞こえてきます。家を出て水たまりで跳ねる音、雨合羽で走り抜ける自転車の音。いつもの風景は薄れて、音の中へと駆け出してゆく、それは幻想的な旅立ちに思えました。

だけど、キマリさんは東京ゆきの電車に乗ることができませんでした。美しい雨の情景も、音楽の盛り上がりも、いかにも旅に出そうだという流れがあったと思いますが、彼女はこの先へ進むことができませんでした。のちにキマリさんが呉港へ旅立つ日には天気が晴れとなりますので、よりもいという作品は晴れの日の精神を旨とするのだなぁ、と思われるところではあります。晴れの日の精神というのは、例えば、はっきりと開放された言葉や行動で前へ踏み出してゆく精神をここではそう呼んでみました。一方、彼女たちには話すつもりのない思いや言葉にならない思いを抱えている姿もありますので、後に見せるそうした姿のことを思えば視界のはっきりしない雨の日も彼女たちに親しいものと映ります。

この日の雨は、優しいと思うなぁ。

さて、電車に乗れなかったキマリさんは「よどんだ水が溜まっている。それが一気に流れていくのが好きだった」という過去形の思い出とは異なっています。砂場の水を決壊させて上手に遊べていたあの頃と今の彼女では何が変わってしまったのか、いや、むしろ変わっていないことが彼女を踏みとどまらせているのだと、ここでは明らかになってゆきます。

キマリさんが報瀬さんと出会って受けた衝撃のひとつは、中学から高校に上がったら自分をどんな風に変えるかを決めて、実際そのようにしたということだったでしょう。キマリさんは高校へ上がる前に何かよくは判らないけど変わる必要があると思えていたようで、その決意を振り返ってみると、
「高校に入ったらしたいこと
・日記をつける。
・一度だけ学校をサボる。
・あてのない旅に出る。」
そして「青春、する。」と手帳にありました。また、めぐっちゃんに相談したのは「高校時代はなにかしなきゃって思ってたの。なんとなくは良くないって。時間は限られているのに、あの時の決心どこいったって話だよ」ということ、報瀬さんに伝えたのは「私ね、高校に入ったらなにかしようって思ってた。今までしたことないこととか、なにか凄いこととか」つまり、まだ言葉にできない「なにか」は日記やサボりやあてのない旅といった言葉でしかまだ予想できないのだけど、なにかこう、未知の切実なる思いであって。だけど、このなにかを求める決心は手帳に長らく放置され、気持ちを新たにしたところでやはり電車には乗れず、挫かれてしまうのでした。

一方の報瀬さんは、「私は行く。絶対に行って、無理だって言った全員にざまあみろって言ってやる。受験終わって高校入ったときに、そう決めたの」そう決めたことを周りからなんと言われようと実行した。高校に入ったらしたいと決めたことがあって、それを実行していることがキマリさんには眩しかったと思われます。

帰宅部のキマリさんとバイト生活を送る報瀬さん、まるで別の放課後を過ごすふたりが雨上がりの夕べに出会ったのは偶然だったでしょうか。キマリさんは茂林寺で雨宿りしながら暗くなるまでめぐっちゃんに相談していましたが、報瀬さんは放課後この時間まで何をしていたのでしょう。具体的な理由を推測することもできますが、ここでは雨上がりの街の様子を想像するところからふたりの出会いを導きたい思います。というのは、雨宿りの雰囲気がとても好ましいからでして、キマリさんとめぐっちゃんが仲良く傘を並べて掛けているのも、雨が四方に帳を下ろしてふたりだけの静かな場所を作っているのも、ふたりが幼なじみで親友な様子をしっとりと描きだしています。第1話ではこの雨の日の街の様子というのを大切に想像してゆきたいと思います。

雨の日には雨宿りをする人や外出を控えてる人がいます。そして、雨が止むと街の人は一斉に動き出します。いつもは異なるスケジュールで暮らす人たちを雨は同じ時間にせき止めて、雨上がりとともに解放します。だから雨の日というのはいつもと違う人たちを偶然に出会わせるような、そういう下地があるように思われます。加えて、雨の日には移動手段がいつもとは変わって、例えば自転車の人が徒歩になることがあって、報瀬さんはこの日そうでしたね。いつもは自転車で駆け抜ける街を徒歩でゆくとき、日常とは異なるその時刻、その場所へと導かれることがあるでしょう。

そういえばキマリさんはこの日の朝、いつもと違う時間を体験していたのでした。ずいぶん早くに玄関を出て、知らない自転車が家の前を通り過ぎるのを見送りました。これまでの毎日とは異なる時間にいることを、キマリさんは自転車を見て感じたのではないでしょうか。キマリさんは東京行きの電車にこそ乗れなかったものの、いつもとは違う時間に踏み出した彼女の決意は放課後雨宿りでの相談事に繋がって、そしていつも通りの時間だったら出会うはずのないふたりが雨上がりの駅で偶然に出会うことができた、そういうロマンチックを私は雨に寄せて思います。

雨がいつもと違う景色をふたりに見せて、新しい出会いへと導いています。


3.めぐっちゃんと歩むこと

第1話のキマリさんの気持ちの流れとしては、大好きだった砂場の思い出があって、めぐっちゃんと仲良く過ごしてきた日々があって、キマリさんにはこうしなきゃという思いがあるのに怖くなって東京行きの電車に乗れなかった、という様子を覗うことができます。キマリさんのこの思いと、ずっとキマリさんの傍にいためぐっちゃんの思いは、第5話で改めて語られることになります。

第1話は第1話だけに完結した良さがあるのですが、砂場で水遊びをした思い出について話すには砂場の再登場する第5話についても触れずにはいられないようです。砂場の水たまりを決壊させて上手に遊べていたあの頃、キマリさんの傍にはめぐっちゃんも居たことが第5話で明らかになります。独りではうまくできなかったキマリさんは、めぐっちゃんの手助けによって水を一気に流し、笹舟を出港させることができました。「よどんだ水が溜まっている。それが一気に流れていくのが好きだった」というキマリさんの幸せな思い出は、実はキマリさんとめぐっちゃんがふたりで遊んだ思い出であって、水の「走り出す」風景はふたりの力で成し遂げられたのでした。

そうやって夢中で出港遊びをしていたふたりは、中学、高校と上がるうちに同じようには出来なくなって、キマリさんは直前で怖くなって踏みとどまるようになり、めぐっちゃんはいまいち冷めた時間を過ごすようになっていました。もう砂場の頃とは居場所も体の大きさも違う、だからふたりで出港遊びする方法も幼い頃とは変わってしまってるのだけど、それを求めなかった、求めて手帳に書いても忘れてしまっていた。再びふたりで船の「走り出す」風景を見る道があることに気づくきっかけもないまま、高校二年生になったのだと思います。

かつてのキマリさんとめぐっちゃんは、いつも一緒に居たというだけでなく、ふたりで同じ物を見ていたのだと思います。第3話で「同じ所に向かおうとしているだけ」というキマリ・報瀬・日向の関係が示されますが、それに近い部分すらふたりの間にはあったと思います。それは、笹舟が流れ出すのを笑顔で見送るキマリさんの横で、やっぱり同じようにして笹舟を見送るめぐっちゃんのことを私が想像してしまうからなんですが、多分めぐっちゃん本人はそういう素朴だった頃のことを忘れてそうで。というのは、どれも私の勝手な思い入れではありますが。

キマリさんはめぐっちゃんと出港遊びをしていた頃の幸せを大事に抱えてるので、作中ではそうした気持ちが砂場の思い出を語るモノローグとしてあらわれているのだと思います。このことをはっきり思い出すきっかけとなるのが冒頭の手帳から始まる旅の失敗で、雨宿りでめぐっちゃんにこの話をするとき砂場のカットが入るのもそのためだったでしょう。あの頃、砂の堤防に手を掛けて決壊させることが出来ていたのに、いまは堤防を崩せなくて、それで東京へも行けなくって。隣には昔と同じようにめぐっちゃんがいて、だけど同じように決壊させることができないふたりになってしまっています。

かつて同じ物を見ていた関係を、幼い頃とはまた違う、今の自分たちにうまく合うような形で取り戻してゆく、その始まりが第5話の別れの朝だったのだと思います。

最初に第5話を見たときは、「ここじゃないところ」「おまえのいない世界」へ踏みだそうと一大決心してきためぐっちゃんを勝手に絶交無効して、自分だけは決壊して南極へ出港するキマリさんは酷いって、わたしは怒っていたのですが、第1話と第5話の砂場の思い出を何度も繰り返し見ているうちに、そうじゃないと思うようになりました。

第5話の最後には第1話の笹舟の映像とキマリさんのモノローグが再び置かれています。
「よどんだ水が溜まっている。それが一気に流れていくのが好きだった。
決壊し、解放され、走り出す。
よどみのなかで蓄えた力が爆発して、全てが、動き出す。
全てが、動き出す。」
キマリさんは自分だけが動き出したって思ってるわけじゃなくて、めぐっちゃんにも同じことが起きていると思ったから、あの砂場で笹舟を出港させた思い出こそがここで語られたんじゃないかな。あれはキマリさんとめぐっちゃんとふたりで作り上げた思い出だから。

めぐっちゃんは絶交しなきゃ自分は踏み出せないと思ったわけだけど、キマリさんは自分もめぐっちゃんもいま同じ場所に立って同じように行動しようとしてるのだからふたりが別れる必要はないと思ったので「絶交無効」って言葉が出てきた。絶交という言葉に賭けた思いはそれぞれに違っていて。

最終話の一番最後には、「だって、同じ思いの人は、すぐ気づいてくれるから」という言葉が置かれています。第3話の「同じ所に向かおうとしているだけ」に似ていますが、最終話ではもう南極という特定の同じ場所へ向かう必要すらなく、思いさえ同じであれば深く繋がることのできる関係が示されています。あの幼い夏の日、キマリさんの隣にいためぐっちゃんのことを思うとき、私はそこにキマリさんと同じように出港する笹舟を見送るめぐっちゃんの視線を想像します。あの日、きっと同じ物を見ていたふたりが、今は同じ思いを持つふたりになったのでした。

最終話から第1話を振り返るとき、その水辺の輝きのなかにめぐっちゃんの姿を認めることも出来るようになります。キマリさんが呉港へ出発する朝、駅まで駆けてゆく彼女を町の水路がキラキラと祝福して、新幹線から見える浜名湖にも光、辿り着いた呉港の眩しさに包まれたしらせの前で、あの日、砂場に作った小さな水辺を、いま、大きな水辺で取り戻す。宇宙よりも遠い場所まで広がる海の、その水辺のキラキラは笹舟を出港させた水の煌めきでもあって、めぐっちゃんの旅立つ予感も秘めているように思えるのでした。


(2018年8月1日 疏水太郎)

マイレコメンド「宇宙よりも遠い場所」

「宇宙(そら)よりも遠い場所」は、南極をきっかけに巡り会った四人の道ゆきを描くテレビシリーズ作品です。略して「よりもい」とも呼ばれます。この文章は作品の大まかな流れにも触れつつ、まだ「よりもい」を見ていないかたへ向けて作品の魅力を伝える目的で書きました。

では、早速ですがご案内したいと思います。


高校生の玉木マリことキマリは、新しい一歩を怖れる人でした。失敗しないかな、後悔しないかなという気持ちでいつも胸が詰まってしまうのです。しかし、この怖れを振りほどけるほどの情熱がある、ということを同級生の小淵沢報瀬に感じたとき、キマリの中にも旅立つための力が湧いてくるのでした。

序盤のこうした流れを支えるのが、ときおり挿入されるモノローグとそれに重なる叙情的な映像です。たとえばそれは、キマリが幼い日に愛した砂場の思い出。砂のダムから一気に溢れ出す水のような気持ちが、いままたキマリの力となっています。キマリが報瀬とともに南極へ駆け出す様子は、水辺のキラキラした映像とともにあって、そこを一直線に貫く新幹線に寄せて描かれているようです。「よりもい」を見るとまずは、情感を伴った映像の美しさに心を奪われます。

さて、気持ちが真っ直ぐでも旅路はそうもゆかず、彼女たちは小さな道ゆきを重ねてゆきました。旅の同行者はみな南極を目指しているものの、それぞれ別の思いも抱えていることが判ってきます。新幹線にワゴン車、飛行機や砕氷船でゆく旅路に、見知らぬ夜の街、人里離れた高原、異国の街はどきどきして、騒動もあって、酷い目にあって、馬鹿みたいに笑って、そのなかで見える人の心の動きも初めて触れるようなことで、キマリのずっと望んでいた「青春」がここに浮かび上がってきます。

キマリと報瀬の「嘘ついてない感じ」に惹かれ、ふたりを信じてついて行くことにしたのが三宅日向です。その背景には、彼女の通っていた高校で人々が見せた行動への不信と、結果としての高校中退がありました。高認を取って志望校も合格確実という努力家の彼女は、16歳の自分の今しか出来ない体験を貪欲に求めます。ここから始まる日向のやんちゃな道中は、信じられる仲間を得ることが出来た喜びに溢れています。

最後に登場する白石結月は、幼い頃からタレントの仕事に生活を削られて、高校生になってもまだ友達のいないことを解決したいと考えています。友達を求める彼女の大胆な行動は、報瀬たちに南極への足掛かりを与えることになりました。また、どうしたら友達を作れるのか考え続けた結月の執念は、彼女らが友情の形についてそれぞれの言葉で語る糸口をもたらしました。

自分の思いをなるべく言葉にすることが、本作品の大きな持ち味となっています。それは「ざまあみろ」という小気味よい叫びであったり、静かに語られる胸の内であったりもします。キマリは第1話においてあまり洗練されない感じも見せるのですが、それでも自らの怖れについて親友のめぐみに語る時には、自分の気持ちと向き合った言葉をひとつひとつ明確に刻んだ話しぶりとなります。それは、相手のことを考える自分の気持ちについて言葉にするときも同じです。人間に対して真摯に向き合った言葉と、そして大胆な行動とで前進する彼女たちの姿は、極地の自然に対峙する観測隊の姿と重ねることで、本作品を挑戦の物語としても成立させています。

だけど、言葉にできることばかりじゃない、ずっと聞けないでいること、言いたくなかったこと、夢みたいでうまく言葉にできそうもないこともやはりあるのです。結月の友達作りはどこへ到達したのか。繊細な日向がいつも割り切りの良すぎる名言を口にする訳は。そして、冒頭で報瀬の示した南極とは、彼女にとって単に距離や実際の条件において「宇宙よりも遠い場所」だったわけではないこと。はっきり言葉で進行する物語の裏側では、彼女たちの抱えてきた感情も細やかな描写とともに紐解かれてゆきます。

よりもいは、登場人物から慎重に拾い上げた言葉で組み立てるドラマを支柱として、映像や声や音楽が、登場人物の、ひいては私たちの感情を揺らしてくる作品です。その見事な編み上がりをぜひご堪能ください。

 

(2018年6月25日 疏水太郎)

 

宇宙よりも遠い場所(公式)

 

宇宙よりも遠いファンタスティック(後編)

f:id:kgsunako:20180604022610j:plain

私は「宇宙よりも遠い場所」に登場する夢や、夢みたいなことの描かれるさまが大変好きです。昔からこういうのばかり好きなので、作品中の幻想的な出来事に宛ててどういう言葉を送り出せば届くだろうかと、ずっと取り組んでいます。なので、今回もそうした試みの文章となります。

以下ではアニメ版第12話までの話を含みますので予めご了承ください。また、後でも構いませんので(前編)のほうも読んでいただけると嬉しいです。


(1) 夢うつつの境

宇宙よりも遠い場所」という作品では、超自然的な出来事は起こりません。話を駆動するのは主に登場人物の意志を伴った言葉と行動です。ただ、あまりその意志ばかりに頼むのも窮屈なためか、ときおり普通じゃない体験が夢やそれに近い形でやってきて、登場人物の気持ちをわっと揺らしているように思われます。

夢といえば最もそれと判るのは第3話「フォローバックが止まらない」で結月さんが夜見る夢です。窓から三人がやってくるという変な夢で、そんなわけないのだけど結月さんが友達を求める心に応えたみたいでもあって、北海道の同級生よりも出会ったばかりの三人のことを自分は求めちゃってるのかな、という不思議な感じもあって、それに窓から落ちるのはびっくりするし、どうしてそんなことが起こるのだか可笑しい。はちゃめちゃな日々が始まりそうな予感だけ残して目が覚めてしまう。だからそれはおかしくって、でも今の自分とは違っていて切ない。

第3話の窓辺の出来事が実際のことではなく、結月さんが夜見る夢にほかならないというのは、細心の注意で区別されています。ベッドから落ちたところで途切れるというだけでなく、ホテルの窓が実際は人が出入りできるほどには大きく開かないことをわざわざ確認しています。個人的には実際のことと夢みたいなことの境界は明確でないほうが好みですが、本作はそれを許さないのだなと初めて見たときには思ったものです。

この作品はやはり人がどうにかするという話であって、そこへ夢みたいなことを差し込むときには、なるべくそれと判るようにしているのだと思います。第12話では雪上車の夜に報瀬さんが貴子さんと吟さんの幻を見るという場面があります。ここでも貴子さんの姿は半透明で光を帯びて、吟さんも同じような光を帯びていて、実際の車内の様子とは絵の上で区別されていました。これは報瀬さんが半ば眠りのなかで見てる夢とも思えますが、強く目を見開いたままキマリさんからの呼びかけに気づく様子は第3話の目覚めと異なる描き方なので、ここでは幻としておきます。


(2) 夜の嵐

実際のことと夢や幻とを区別するにしても、夢をどういう文脈で導入するかによって大きく印象が変わります。真昼の活動中に見る夢と夜にベッドで見る夢とでは思いがけなさが異なるでしょう。「宇宙よりも遠い場所」では夢幻の時間は夜に訪れるので、あまり突飛にならないよう注意が払われているのだと思います。さらにいうと、第3話は5月の嵐の夜の夢で、第12話ではブリザードの夜に見る幻となっています。嵐の夜というのはいかにも心になにか打ち寄せてくるような気がします。普通ではない気象に心を揺らされるそのなかに夢や幻が無理なく伴うよう描かれているのだと思います。

さて、嵐の夜の出来事といえばもうひとつ思い出される場面があります。第3話と第12話のちょうど間くらい、そう、第8話「吠えて、狂って、絶叫して」にも嵐の夜が訪れています。嵐の夜であればこそ、夢みたいなむちゃくちゃな時間が訪れています。あの夜の海が実際の出来事であるというのは、第3話と第12話には覚める瞬間があってこちらにはないことから書き分けられています。その一方、嵐の夜と翌朝とは不連続で、まるで昨夜は何事もなかったかのように平穏な朝が訪れています。昨夜のことに少しでも触れられていればそれは実際のこととして根を下ろすのですが、ここはあえて浮ついた感じを残して、あれがまるで夢みたいな時間だったことを立たせているのだと思います。

宇宙よりも遠い場所」をシリーズ通して見ると、夜見る夢(第3話の嵐の夜)と夢みたいな出来事(第8話の嵐の夜)と幻視(第12話のブリザードの夜)との間には、絵の透明度の違いや覚める場面の有無によって丁寧な書き分けを認めることができます。夜の嵐が定番めいて3度巡ってくるのですが、それぞれに別の角度からありえないような体験を差し込んで、4人の旅を彩っていることが判ります。


(3) 夢かうつつか、寝てか覚めてか

ここまで夢か幻かはっきり言葉として出てくる場面はありませんでしたが、作品中で「夢」という言葉が明示的に使われる箇所があります。これまでになく、夢とあえて言わずにいられない事態がそこでは起こっていて、それは第12話冒頭の報瀬さんの言葉にあります。

「それは、まるで夢のようで。あれ、覚めない、覚めないぞ、って思っていて。それがいつまでも続いて。まだ、続いている。」

あれだけ実際的な行動をしてきた報瀬さんが、一方で夢のような時間の中にもずっといたという告白でした。この言葉の射程は長く、ひとつひとつの夜に収まるものではなく、報瀬さんがキマリさんと出会う前から今までの間、ずっとということになります。

報瀬さんだって日々の暮らしと夜見る夢との区別はついているわけですが、そうだとしてもこれは夢じゃないのか、という、そんなはずのない言葉でしか表わせない思いを抱えているのでしょう。第9話で報瀬さんが「どう思っているかなんて全然判らない」と絞り出すように話した困惑は、第12話では夢という言葉に現れています。

第12話では夢という言葉を伴って報瀬さんの困惑がシリーズを遡って広がってゆきます。報瀬さんがここまでずっと訳の判らない思いを抱えたままで、母親のいなくなった場所へ向かうしかなかった。そのことを一気に振り返った上で、いよいよ旅の終着点へ近づいていることが判ります。

その極まった状況で、覚めない夢はついに彼女の目の前に出てきてしまう。

報瀬さんの日々が「まるで夢のようで。あれ、覚めない、覚めないぞ」ってなってる、その夢というのはそう言葉にするしかない喩え話だったのですが、雪上車の夜に、ついには報瀬さんの目の前で貴子さんと吟さんの過去が幽かに甦ります。核心の地へと近づく中、尊い幻視と出会って、そんなどうかしてしまいそうな瞬間にこちらへ呼び戻してくれるのが、キマリさんで。

「報瀬ちゃん・・大丈夫?」というキマリさんの呼びかけ。具体的な何かに対して大丈夫かと尋ねたようではなく、報瀬さんの様子がどうにも気がかりだ、という第12話において一貫したキマリさんの態度ではあります。だけどこの雪上車の夜の《大丈夫?》は特別で、何年もの間、夢のような時間をずっと抱えていたすべての報瀬さんに届く言葉であったように思えます。

キマリさんが声を掛けた一瞬は、ふたりの出逢いからずっと共に走ることはあっても交わることのなかったキマリさんの青春と報瀬さんの覚めない夢が交差する瞬間だったのだと思います。


(4) 夢をみるひと

宇宙よりも遠い場所」で描かれた幻想的な夜に、キマリさんは特別な動きかたを見せていたように感じられます。はしごの先頭に立って手を伸ばしてくれたキマリさん。皆がベッドから立てないなか「選んだんだよ、自分で」と口火を切ってくれたキマリさん。そして「大丈夫?」と声を掛けてくれたキマリさん。ひょっとするとだけど、彼女の寝相の悪さも、目を開けて寝言をいうことも、夢やベッドに囚われず行動できる彼女の副作用なのかもしれません。

第12話の雪上車の夜にキマリさんが「今まで寝てて、目が覚めた」と言うのは、半ば報瀬さんのことも説明しているように思えます。報瀬さんも、今まで幻を見てて、目が覚めました。偶然重なったみたいに真を突くようなことを話すのが面白く思います。

目の覚める時が重なること、ただそれだけでもロマンチックで。

なんならキマリさんは報瀬さんのことを夢に見ていたんじゃないか。人も幻も沈黙を守るブリザードの夜に、夢が車内を満たしていたのではないかと思います。


(5) おわりに

宇宙よりも遠い場所」は人々の言葉や行動で前進しがちな話ですが、そうした前進が嘘にならない加減で幻想的な描写も伴っています。とくに終盤、第12話において、夢、という言葉は報瀬さんの過去へずっと遡及して、広がったそれは雪上車の夜に結実します。それは宇宙よりも遠い場所の一夜に降りた、ファンタスティックだったと思います。

 

 

(2018年6月4日 疏水太郎)

 

 

宇宙よりも遠いファンタスティック(前編)

f:id:kgsunako:20180604022610j:plain

アニメ「宇宙よりも遠い場所」(よりもい)の幻想的な描写が好きです。

宇宙というタイトルや南極という目的地から連想されるほどにはアニメ本編は私たちが抱えている日々から離れないし、どちらかというと人の言葉や行動で前進する話なので、本作品の幻想性というのは要所でスパイスを効かせてあるくらいなのですが、私がよりもいのこと単にむちゃくちゃいい作品だなーと思う以上に自分のお気に入りの作品となってるのはそこなので、そういう話をしたいと思います。

えっと、あともう少し言い訳めいたことを書きますが、よりもいは割と執拗にここで描かれていたことはあそこにあったという照応があるタイプの作品で、まずはそちらを追いかける楽しみが充分に用意されています。いしづか監督が次のようにアピールされていることも、実際、作品へ素朴に反映されているように思われます。

いしづか「2回見ることを大前提で作っていたりします。もう一回見たときに気づいて欲しいな、というアドリブを各所に入れています。(中略)皆さん、見返すと、きっと楽しいですよ!」

ウルトラジャンプ2018年4月号インタビューより)

よりもいが作品の全体としてまず面白いと思えるのに加えて、そのうちの細かい照応だけでも探しきれないくらい出てきますので楽しみは尽きないのですが、それはそうとして、作品をなぞることからは少し距離を置いた、個人的なお気に入りにも触れたいと思います。

文章でなく絵を描いて思うこととしても、よりもいに関してはなるべく作中の絵や設定をなぞるようにして、プロップデザインの細かさもこの作品の魅力であるし、またこのときはどの衣装であるべきかとか、結月さんの二重まぶたはどうあるべきかとかを考えて描きたいときもあるし、そうでないときもあります。同じ第3話の夢の場面でも、次の3枚の絵を描いていて、それぞれどういう風に描きたかったという気持ちが違っています。

f:id:kgsunako:20180604024926j:plain

①こちらは第3話の場面そのものをなぞりつつ説明したかった絵ですね。絵の右下にコメントも書いています。

f:id:kgsunako:20180604024947j:plain

②こちらは作中の夢が友達との出会いに関わる様子を、第3話を意識しながらも具体的な場面とはやや切り離して描いた絵です。

f:id:kgsunako:20180604022610j:plain

③こちらは一部の要素だけは第3話が参照されていますが、私の好きな物しか描いてないぜ!という絵です。星が散らばってるのとオレンジ色と、ぐにょーんと伸びた腕が私が好きな物を詰めた結果ですね。

よりもいは①のようによりもいの世界をなぞっていってもずっと面白く描き続けられるし最初はそうしていたのですが、ちょっと②とか③みたいな、そこにないけど私が見るものも色濃く描きたくなってきました。

よりもいのようにシリーズとして練り上げられた構成や演出の良さがありつつ、作品内の照応や作品外の参照も細かいというサービス精神あふれる作品と対面したときに、絵にしても文章にしても、そこから離れてゆくスタイルはどうかな、なんかもったいないとか、なんだこれ、という気もしましたので、ついてはどういうことを思いながら描いてるか/書いてるかの補足でした。真芯を外したところでも私にとってはホームランでして。 

 

さて、大切な脱線が終わりましたので、(後編)ではようやくよりもいのファンタスティックの話を始めます。

書籍「宇宙よりも遠い場所」を抱いて

f:id:kgsunako:20180520015549p:plain

よりもいの第1話にはキマリさんと「宇宙よりも遠い場所」という本との出会いもあったように思われます。それは放課後に親友からの誘いを断ってまで図書室へ探しにいった本で、手に取ってそのまま心奪われたように頁をめくり、呉への旅にも一緒に連れて行ったこと、新幹線で眠るキマリさんの手元にはこの本があって、それはもう夢にまで持ってゆきそうに見えて。

キマリさんが「宇宙よりも遠い場所」に触れる様子は第2話以降ありませんが、第1話でこの本がキマリさんの胸に刺さる様子が素敵だったので、少し話を広げてみたいと思います。誰かの好きな本のことを考えるのって好きなので。

小淵沢貴子さんが書いた「宇宙よりも遠い場所」は、第1話の図書室で覗える範囲では南極と南極観測隊の日々を美しい写真とともに紹介する本のようですが、第7話ではそこに貴子さんの詩的な文章も添えられていることが明らかになります。

宇宙よりも遠い場所
それは決して氷で閉ざされた牢屋じゃない

 

あらゆる可能性が詰まった
まだ開かれていない世界で一番の宝箱

(第7話より)

貴子さんのこの言葉を聞くとき、作中でたびたび挿入されるキマリさんのモノローグが思い浮かぶのでした。それはキマリさんの内なる声のようでもあり、旅を振り返るような声でもあり、その時そこに居る人たちの現前する声を離れた書き言葉らしい叙情性をもって作品を彩っています。両者の相通じる詩情は果たして、あの第1話における本との出会いがきっかけに生まれたのではないかしら。

よりもいは作中のことにいちいち照応があるタイプの作品ですので、ここで第1話の《高校に入ったらしたいこと》の《日記をつける。》に触れておきたいと思います。キマリさんはものを書く活動というのをこれまでしてないので、高校に入ったらしたいことの一つとして日記をたぶん漠然と挙げていました。そこに貴子さんの言葉との出会いがあって、それがきっかけで芽生えた言葉を紡ぐことへの思いが、キマリさんのモノローグには溢れているように思えて。

キマリさんのあの声は、貴子さんの言葉を受けて、それを追いかけるようにして何らかの形で綴られたキマリさんの日記なんじゃないかな。いつ、どのようにして書いたかは判んないですけど。

よりもいはその場で声として伝えあった言葉や表情、しぐさや姿勢、その見せ方によって動かされる部分の目立つ作品ではあるのですが、目に見えるけど見えないもの、たとえば結月さんの夢、声に聞こえるけど聞こえないもの、たとえばキマリさんの日記みたいなモノローグによって、立体的に構成されています。ドラマに詩が伴うときの質感の重なりは、あるいは絵にもそういうところがあって、オープニングとエンディングのアニメは手描きの世界を伴って、たとえば頭からお花が生えてるのも質感の異なるチャンネルを開いてくれています。

エンディングの花の絵、ほんといいですよね、と書籍「宇宙よりも遠い場所」にことよせて改めて思われるところです。 

 

(2018年5月20日 疏水太郎)