疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

さし絵の昼と夜

 

ニレの木広場のモモモ館 (ノベルズ・エクスプレス)

ニレの木広場のモモモ館 (ノベルズ・エクスプレス)

 

「ニレの木広場のモモモ館 」は壁新聞をつくる子供たちのお話で、千葉史子(ちかこ)さんの可憐なさし絵をふんだんに見ることができます。壁新聞というのはなるほど、思い思いのイラストが散りばめられているものではないでしょうか。おそらく元が朝日小学生新聞の連載なので毎回さし絵があって、単行本にもそのまま掲載されているためだと思われますが、まずは私の目を大変よろこばせてくれます。嬉しい!

それぞれ感想を書きたいくらいのさし絵なのですが、1枚えらぶならこれ、という絵だけ紹介したいと思います。とはいうものの、私がなぜその1枚が好きかを説明するにはいくつか他の作品も参照しながら前置きをする必要があります。

わたしは夜中に何かをしている子供を描いたモノクロームにいつも惹かれます。

月夜の空を黒い服の魔女と黒猫が真っ黒のほうきで飛んでいる姿を想像してみてください。彼女たちはどんな「色」をしているでしょう。そして、その様子を黒と白だけで描くならどうなるでしょう。これは角野栄子「魔女の宅急便」の一場面で、林明子が実際さし絵として描いています*1。ペン画は通常、白い紙に黒いペンで輪郭線を描きます。では、黒色で覆われた夜空をゆく黒魔女さんと黒猫さんの輪郭はいったい何色で描きましょう。

夜の闇は普段みなれた黒い輪郭線を隠して、別の方法で絵を見るように求めてきます。例えば、夜には人物の輪郭線を白色で示す、という表現がありますが、ひと続きのさし絵のなかで白と黒はそんな簡単に裏返っていいのかという驚きがあります。

当たり前のことをことさらに採り上げてると思われるかもしれませんが、これは林さんのさし絵を見たときにものすごく美しいなという思いと「夜空を黒魔女と黒猫が飛んでいる」という言葉が同時に浮かんで、その言葉の黒々としたなにも見えないイメージに反して、じっさいの絵では二人の姿を確かに認められることに感動したのがきっかけでした。以来、私はそんな風に絵が黒く覆われた夜、そこに人物のような姿を認めたときに、本当は見えないはずの人がそこに見えているかのような不思議を感じます。

では林さんがどのように表現されていたのか、それは概ね白の輪郭線という範疇かもしれませんが、闇の表現は絵描きさんそれぞれに味わいあるところなので実際に本のほうを読んで頂けると嬉しいです。

魔女の宅急便 (福音館文庫 物語)

魔女の宅急便 (福音館文庫 物語)

 

闇のさし絵についてもう一つ紹介したいと思います。天沢退二郎「光車よ、まわれ!」(筑摩版)のさし絵は作品の暗がりを受けて黒々としています。これは司修の版画かスクラッチ画で、おそらくはスクラッチだと思います*2

スクラッチというのは原理としては黒く塗られた板の表面をするどい道具で削ると下地の白や他の色が現れるというもので、みなさんも子供の頃クレヨンでやったことがあるのではと思います。版画とスクラッチを出来上がりで区別するのはたぶん難しいですが、制作過程はだいぶ違っていて、版画は制作中に見える色と実際に刷る色が異なるものですが、スクラッチは制作中に見える黒地と掘った先に現れる色がそのまま出来上がりの色となります。例えば作中、国立図書館の夜間閲覧室(なんて素敵な響き!)の奥にある古文書室(!!)を子供たちが訪れる場面では、そのさし絵はたとえ室内灯があるのだとしても暗がりであってほしいもので(なにしろ図書館で夜で古文書ですから)、まさにその暗い部屋で光車をあらわしたあの古文書の絵は、闇色の板からスクラッチで掘り出した光として制作されたものだと、どうか想像してください。

スクラッチは闇から光を、あるいは闇から闇を掘り出します。夕闇の古工場で、龍子さんの広げたスカートの絵は夕闇よりも暗い、黒い鳥のように見えましたね。《黄昏よりも昏きもの》と唱えた人もいましたが、スクラッチは闇色から闇よりも深い黒を掘り出すことが出来るのでした。

光車(ひかりぐるま)よ、まわれ!

光車(ひかりぐるま)よ、まわれ!

  • 作者: 天沢 退二郎
  • 出版社/メーカー: ちくま文庫
  • 発売日: 1987/5
  • メディア: 文庫
 

さて、そもそもですが、夜中に街の暗がりで子供たちがなにかしてる、というだけでも好ましいものです。普通は外へ出してもらえない時間に外にいるというのは特別なことであって、魔女の宅急便のキキにとってそれは故郷から旅立つ夜でした。あるいはそれは光車の秘密に触れる夜でした。そして「ニレの木広場のモモモ館 」で描かれたのは、子供たちが夜の集会を抜け出して、暗号が示した地面を掘るというものでした。

それまでの昼間の絵から一転、絵は夜を迎えて、なかでも暗がりに描かれた四人の子供の四つのかたちに惹かれます。私は秘密を覗いている。その秘密は黒いペンで描かれていて、黒で描かれた夜の闇と、同じく黒で描かれた子供のかたちはしかしお互いに混ざり合うことはなくて、そこで行われている秘密を私に伝えてくれます。黒色は何も見えなくて秘密なのに、なぜだかその秘密は私にだけ見えているような、そういう感じがするのでした。

「ニレの木広場のモモモ館 」の壁新聞は、新聞づくりを通してかえってナイショの出来事が増えてゆきます。ナイショの出来事は結果として明かすことになったりナイショのままにしたり、ナイショであることを知らぬままに終わったりするのですが、ナイショをいろいろ取り扱うことが創作する心や創作を鑑賞する心を伴う様子は、作者高楼方子がこれまで創作を描いてきたことのまた一部を為すものと思いました。そして、そのあらわれとしても、ナイショで掘り返された夜の地面の絵のことは深く印象に残るのでした。

 

(2018年10月21日 疏水太郎)

*1:私がのちに原画展で見た感じでは、こちらの絵はおよそピグマペンの黒で描かれているように見えました。白は塗り残しによる表現もあれば、白いインクを使った箇所もありました。

*2:版画とスクラッチ画を見た目で区別するのは難しいように思います。ただ、司修は1969年に「宮沢賢治童話集」(実業之日本社)の表紙とさし絵を描いており、これはスクラッチで描かれていたようです(「絵本の魔法」内容紹介文より。https://www.amazon.co.jp/%E7%B5%B5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%AD%94%E6%B3%95-%E5%8F%B8-%E4%BF%AE/dp/4560083177 )。光車の初版刊行は1973年。天沢退二郎といえば宮沢賢治ですので、宮沢賢治童話集のスクラッチを見て司修に同様のさし絵を依頼した、というのが私の想像です。