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天球儀植物園へ

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【まえがき】

 サクラノ詩、という作品についてはあまり言葉にならないです。答えは自分の暮らしの中に織り込んでゆこうと思いました。

 ただ、それでも、暮らしというよりは私自身の天体嗜好症に引き寄せて、かつて空想していたことと響き合ったり、新たに発見した美しいことがありました。だから、サクラノ詩が天体を参照する際に私が感じたきらきらをどうにかこうにかここに並べてゆきます。

 

【星めぐりのハンドル】

 冬の夜空に見えるのは冬の星座ですが、深夜を過ぎると東の空から春の星座が昇ってきます。冬の花は冬に、春の花は春にしか咲かないけれど、天の星座は一日のうちに季節の移ろうことを、夜更かしのあなたは知っています。

 星と花の季節の巡りを魔法として備えたのが天球儀植物園でした。これは私が20年くらい前に空想した施設で、ずっと考えているうちにいろんな形をとりましたが、そこには星と星を回す機械があって、それが巨大な温室に収められているという点は共通していました。

 1995年の覚え書きによると、天球儀植物園はとある王国の万国博覧会にあって、少年たちが夜な夜な遊び回って互いにキスなどしていた場所のようです。少年時代の好きとか嫌いっていうのは瞬間的に激しく、また曖昧にうつろうものだったように思われました。心底憎んだ人とでも翌日にはじゃれあっていたり、月の単位で変わってゆく仲良しの関係、昔の仲良しとはほとんど口もきかなくなったことに戸惑いを覚えたり。そんな子供同士の関係の不思議についてあなたに伝えたいと思っていました(1995年11月5日)。

 1997年の覚え書きによると、舞台は大阪の鶴見緑地にある花の万博(EXPO'90)跡地でした。万博跡地には咲くやこの花館という名の大温室が今も残されています。私の想像によるとこの温室の中心にはプラネタリウムの投影機のような機械があって、夜になると天井のガラスに夜空が投影されます。あなたは鶴見緑地に生まれた子供たちで、この機械の秘密をさぐるために夜の温室へ忍び込んだのでした(1997年10月5日)。

 また、同じ頃にこのようなメモもありました。それはジュール・ヴェルヌの小説に憧れて冒険写真家になった女性の話でした。彼女が最後に撮った故郷の大温室の写真は水晶宮と題されていました。彼女が眠るとき、その夢は少年の姿となって、かつてのロンドン万国博覧会を映し出す温室のなかを駆け回ります。そしてあなたは温室に出るという幽霊を取材するうちに、この写真家の夢に触れたのでした。

 1998年の天球儀植物園は、半円球のガラスを天蓋に持つ植物園でした。中央に置かれた星光投影機のハンドルを回すと、植物園の草木の四季を巡らせることができて、春の花から夏の花、夏から秋、秋から冬へ、たちどころに変化してゆきます。それはまるで浦島太郎に出てくる四季の部屋のようでした。竜宮城にあるその部屋から東西南北を見渡すと、草木の四季がひと巡りするのだといいます。この星めぐりのハンドルにも四方四季の魔法が掛けられていたというのでしょうか(1998年1月10日)。

 

【天球儀の鏡像】

 夜空が背景の絵として描かれるとき、特定の意図がない限りは星を表す点描がそれっぽく並ぶだけで、実際の星空のままに描かれることは珍しいものです。私は人がどういうつもりで星空を描くのか興味があって、星空の絵を見る時はいつも実際の星空との一致を確認することにしています。

 だから、サクラノ詩のZYPRESSENの話では、糸杉の夜空に実際の冬の星が描かれているとすぐに判りました。だけど、何かが強烈におかしいのです。3秒ほど経って、そこに描かれたオリオンとおうし座の星図が左右反転していることに気が付いて怖くなりました。単に夜空が鏡像になっているというだけでも怖いのですが、そこから想像を進めると、まるで私たちの見る天球をその外側から覗き込んでる誰かがいるような、そんな気にもさせられるのでした。

 鏡像の夜空は天球儀に描かれます。天球儀において、私たちが立つ地球は天球儀の中心にあります。であれば天球儀の表面に描かれる星座は私たちが見る星座の鏡像で描かれていることもすぐ了解いただけるものと思います。こうした天球儀と学者を描いた絵がいくつも知られており、かつて天球儀を手にする人は世界の外側に立つような知を得たと思えたのでしょうか。2015年のルーブル美術館展@国立新ではフェルメールの《天文学者》を見ることができました(The Astronomer (Vermeer) - Wikipedia, the free encyclopedia)。2016年のボッティチェリ展@東京都美術館では《書斎の聖アウグスティヌス》(Saint Augustine in His Study (Botticelli, Ognissanti) - Wikipedia, the free encyclopedia)を見てきました。そんな天球儀はPicaPicaのエンディングムービーにも描かれています。絵のなかの天球儀というのは象徴的な意図を持って描かれてきたようですが、PicaPicaのそれはどちらかといえば天体に関する美しいものの一つとして置かれたように私は思いました。そう思えるくらいに、サクラノ詩において天体が参照されることは特別ではなくありふれているのです。

 なお、後の章では反転していないオリオンとおうしも描かれますので、ZYPRESSENにおける反転は偶然や手違いではないでしょう。ともかく恐怖を煽られるのですが、それはZYPRESSENにおける氷川里奈の差し迫った様子に寄り添う感じがありました。

 

プラネタリウムの季節】

 ドーム状の建物といえばなにを連想しますか? 私にとってそれはプラネタリウムであり、また植物園の温室でもあり、そうした想像から天球儀植物園というものが生まれました。

 氷川里奈と草薙直哉は夜の公園のドームの内側に糸杉の絵を描いてゆきました。最後に直哉が描き加えた明るい色は星と見紛うものでしたが、それはわざわざ否定されています。

《「ああ、星じゃない。ここに描かれているのは全部、桜の花びらだ」》

 直哉は星の日周運動を吸い込んで、木々の季節を巡らせます。これこそが櫻の芸術家の真骨頂でした。私はZYPRESSENより前にもうPicaPicaを読んだときに同じことを感じていて、同じものをZYPRESSENでもまた見たように思いました。それは、PicaPicaのエンディングムービーにおいて天体に寄せて描かれていたことでした。

 月には桂の木が生えているという伝説があります。この話を聞いて以来、私は桂の木を特別なものと思うようになりました。かつて私の書いた桜という名の少女の弟は桂という名でした。そのとき既に桂は他界していました。私は桂を美しく悲しく偲ぶ対象のように思っていたのかもしれません。一方、PicaPicaのエンディングムービーでは最後に月から桜の木が力強く伸びていました。その絵に出会ったとき、私のなかにあった桂の木は櫻の芸術家によって見事に描き変えられてしまったのでした。

 どういうわけか、サクラノ詩と私にはそうした縁があるのです。

 

【圭の昇天】

 戯曲シラノ・ド・ベルジュラック素晴らしき日々で幾度も引用されていましたが、サクラノ詩でもまた私はシラノを感じました。シラノというのは17世紀の実在の人物で、彼を題にとった戯曲がエドモン・ロスタンのシラノ・ド・ベルジュラックとなります。サクラノ詩においてこのシラノを感じさせるのは、PicaPicaにおける月の存在です。月といえばシラノは月世界旅行記という著作を残しており、これがロスタンの戯曲でも参照されて、舞台の名場面のひとつとなっています。

 ここではまず、シラノが地上から月へ昇るために発明した七つの方法のいくつかをご紹介しましょう。

《弓張月の幼くて、乳を求めて育つ時、牛の髄気を身に塗れば、月の世界に吸い上げらりょう!》

《さてどん尻のからくりは、ゆらりと乗った鉄の板、投げる磁石は空へ行く!此奴ァ妙計、鉄板が磁石の跡を追っかける。投げりゃ追い著く、追い著きゃ投げる。投げりゃ追い著く、追い著きゃ投げる。投げりゃ追い著く…… 素敵だぞ! 昇るわ昇るわ際限ねぇ!……》(シラノ・ド・ベルジュラック辰野隆鈴木信太郎訳より)

 この調子でシラノは荒唐無稽な法螺を七つ、マシンガンのようにしゃべり続けることでド・ギッシュという男を計略にかけます。シラノはド・ギッシュをどうにか十五分間、足止めする必要があったのでした。それはそうとして、この月へ昇るための荒唐無稽な七つの方法、これにはなんだか覚えがないでしょうかね?

 素晴らしき日々の It’s my own Invention では、死すべき日の前夜に卓司と希実香がおかしな理屈で月へと昇ってゆきました。

《希実香「そんな少女趣味な事言いませんよっ。あのですね。ここの屋上を天まで届けてくださいっ」

 卓司「屋上を天まで?」

 希実香「はいっ。C棟は4階建てです。今私達はその屋上……五階部分に立ってますっ」

 卓司「ああ、立っているねぇ……」

 希実香「こいつを一階ずつ拡張してゆくのですっっ」》

 なるほど、足元を一階ずつ拡張してゆけば、いつか月にも天にも届きますね!

 この後、希実香が特殊警棒で屋上の柵を叩き折る音が、ふたりの足元を一階ずつ高くしてゆくのでした。

《希実香が物質を音に!

 ボクが音を物質に変えてゆく。

 空に伸びてゆくボクたちの屋上。

 どんどんどんどん伸びてゆく。》

 あのシラノが語った月世界の法螺も荒唐無稽だけど魅力的でした。ありえないものを目指すときの人の精神というのはどこか美しさを帯びるものなのでしょうか。

 

 梶井基次郎のKの昇天でも、シラノの月へゆく方法に触れつつ、また別の方法が紹介されていました。人それぞれに月を目指すためのありえない方法があるのです。

《影ほど不思議なものはないとK君は言いました。君もやってみれば、必ず経験するだろう。影をじーっと視凝めておると、そのなかにだんだん生物の相があらわれて来る。ほかでもない自分自身の姿なのだが。それは電燈の光線のようなものでは駄目だ。月の光が一番いい。》

《自分の姿が見えて来る。不思議はそればかりではない。だんだん姿があらわれて来るに随って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれてこちらの自分はだんだん気持が杳かになって、ある瞬間から月へ向かって、スースーッと昇って行く。それは気持で何物とも言えませんが、まあ魂とでも言うのでしょう。それが月から射し下ろして来る光線を溯って、それはなんとも言えぬ気持で、昇天してゆくのです。
 K君はここを話すとき、その瞳はじっと私の瞳に魅り非常に緊張した様子でした。そしてそこで何かを思いついたように、微笑でもってその緊張を弛めました。
「シラノが月へ行く方法を並べたてるところがありますね。これはその今一つの方法ですよ。》

 Kの体は海中に斃れ、魂は月へ昇天したものと思われます。月まで続くありえない梯子を描いたサクラノ詩の夏目圭の魂も、月へと飛翔し続けたのでしょうか。