疏水分線

ソガ/疏水太郎のブログです。

Little World

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1.

どうしよう。御茶ノ水で降りたときに東京都美術館ターナー展のポスターが目に入ったから、しまった、そういうのもあるのか、と思って、もう15時前だから今日どちらへ行こうか迷ったのだけど、より輝きがあるように思えた少女画展のほうへ向かった。

大きな絵を穴が開くくらいじっくり見ることができるのはとてもよかった。結果、ちいさな部屋を何周もして、1時間ばかり経っていた。

大きな絵といえば画集 LITTLE WORLD 2 でも大槍さんが何度か触れておられたけど、グッズ向けの絵の大きさはこのところテレホンカード大から、タペストリーや抱き枕カバー、シーツの大きさへと拡大している。大きさに伴って素材も変化していて、大きな絵に折り目や皺がつくのを避けるには硬い板絵のような支持体にするか、その反対にやわらかい布地に描くかで、グッズ絵のサイズの変化は大きな布地に綺麗に安価で印刷できるようになったという技術の変化と並走しているように見える。

抱き枕やシーツのグッズは寝具として利用されず、タペストリーのように壁に飾られることがある。いまではすっかり減ったがこれが紙のポスターだった時代を思い出せば、紙面をいかに傷めないようにするか、画鋲の穴から破れやしないか、など気苦労があった。そのためにポスター用のビニールカバーも販売されている。ところが布地は紙よりもそういう心配が少ない。折れてもアイロンを当てればよい。濡れても水くらいなら大丈夫だ。だいいち生活の場は柔らかい布地に満ちている。暮らしの垢に塗れた場所にも溶け込んで、安心して飾ることのできるのが布地の絵であって、こういう風に考えるときは布地が絵の物理的な振る舞いを方向づけているといえる。

大槍葦人*少女画展において、大槍さんは実験的な試みとして、絵を大きくしたいこと、絵を修正・リペイントしたいこと、そしてモノとしての存在感を上げたいこと、の3つを挙げておられた(【大槍葦人*少女画展】について)。モノとしての存在感というのはほかの二つともたぶん関連していると思う。大きさというのは存在感とまっすぐに繋がってて、だけど絵をそのまま大きく引き延ばすと間延びしてしまうから、キャンバス地への印刷と手塗りのニスを加えて肌理を作り出す。加えて、リペイントでもキャンバス地に塗られたようなテクスチャを持つ塗りに変えられている絵がある(たとえば "Fairies")。

ちょっと想像して、この存在感をうちのワンルームに置けるかというとそうは思えなかったけれど、たまたま隣で絵を見ておられた女性の二人組が素敵なことを仰っていた。これ、玄関から廊下に飾りたいね、と。今回の少女画展用描き下ろしのバレエ少女6人の絵である。練習用の手すりにつかまっている絵。廊下の同じ高さに手すりを付けたら、ほんとに女の子が居るみたいになるね、と。僕はそういう素敵な家に住んでみたいと思ったし、そういう生活において親しく振舞ってくれるような絵だった。

大きいこと。大きくするための工夫を経て、そこにあって、それで嬉しかったのはやはり大槍さんの線を、色を、じっくり見れるってことだった。単なる拡大鏡じゃなくて、大きさに耐えるように描き直されてる、そういう絵。

 

 

2.


大きな絵といえばこれまた先々週のこと、国立博物館の特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」へ行ってきて、洛中洛外図とはそもそも大きいものであるが、それを天井まで届く巨大なスクリーン4面に映し出すのが展示入口の出し物だった。CGで描かれた絵がキャンバス地に出力されるのとは逆で、屏風絵がデジタル化されて映像出力されるのだ。こちらは単なる拡大鏡であるが、それでいい気がする。デジタルってそういうものだと思ってるのだろうか。あるいは光のせいだろうか。この場所は入場したらみながそこで立ち止まるため混んでいたが、閉場5分前に入口まで戻って来たら僕ひとりになった。元となった洛中洛外図屏風(舟木本)にはない、圧倒的な光に包まれた。

僕が初めて洛中洛外図屏風と出会ったのは2004年か2005年頃のこと、JR京都駅前にあった「京の道資料館」(京都国道事務所)で、そこに洛中洛外図屏風(上杉本)の複製が展示されていた。入口の空間は床から壁面にかけていまの京都の地図と洛中洛外図とを重ね合わせた部屋になっていて、ここでも僕は絵の世界に包まれるように思った。屏風というのがそもそも、見る者が立体的に囲まれるための形で、だからさっきのデジタル化された巨大な舟木本やこちらの上杉本の部屋みたいにして僕とふれあう展示は自然な拡張なんじゃないかと思える。

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そんなことも思い出しながら少女画展の会場をぐるぐるした。これではきりがない、またもう一度来ればいいと思って外に出た。新宿御苑のほうへ歩いてゆきながらまだ絵のことを考えていた。時間は16時前で、このまま上野のターナー展までゆける気がした。

 

 

3.


ターナーは絵の具メーカーの名前でお世話になって、それで絵のほうもずっと気になってた。嵐の絵を描く人、というくらいに思っていた。ただ、今日は絵のモノとしての存在感について考えていたので、パレットナイフで盛り付けたような荒々しい塗りを見て自分がどんな風に感じるのかを確認したかった。

ターナー展ではふたつ発見があって、ひとつめ、厚塗りもよいけれどむしろ照明が僕には刺さった。「スピットヘッド:ポーツマス港に入る拿捕された二隻のデンマーク船」は壁一面ほどの絵で、展示では右上から照明が当てられていた。
http://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-spithead-two-captured-danish-ships-entering-portsmouth-harbour-n00481
これがね、絵の左側に立つと、空の左上の明るい白い雲のところだけがね、金色に輝いて見えるのだ。反射光で。

ふたつめは「レグルス」。暗い地下牢でまぶたを切り取られて失ったレグルスが、牢から出たとき、さえぎるものない陽光に目を焼かれ失明した、という伝説に基づいた、その瞬間の絵。
http://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-regulus-n00519
僕にとってその話はCGみたいに思えた。電気を消した暗い部屋で、PCのディスプレイを点けるとき、それはまぶたすら突き抜けてくるように射す光だから。

照明の光とえがかれた光とディスプレイの光とを行ったり来たりする気持ちで会場を巡りまた外に出た。もう夜だった。

 


4.

 

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東京都美術館の近くに先月オープンした上島珈琲店で夕食をとった。このお店は東京国立博物館・黒田記念館別館のなかにある。いま本当に行きたいのは本館のほうであるが、耐震改修工事があった影響でまだしばらく閉館している。もう一度行きたいわけは、黒田記念館本館には黒田清輝の「智・感・情」とその光学的な調査結果が展示されていたからである。智・感・情、はもちろん大槍さんが同サイズ、同ポーズのその絵を描くという企画が数年前にあったわけでもあるが(そして僕は見に行けなかった……)、光学的なスキャンによって絵を厚みのあるモノとして捉えていた記念館常設展示のことを僕は思い出していた。
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/japanese/kogaku/kogaku-tenji.html

絵の制作において、塗り重ね、変更されてきた地層を機械の目で透視すると、塗りの厚みは時間的な立体感を持って理解される。絵の修復においては、後の手による修正を消してオリジナルと思われるところまで時間を巻き戻す場合すらある。CGがいくらでも時間を巻き戻せるのは、全ての過程を機械の目で透視しているようなものである。

ちょうど昨日、コンピュータ科学関連の記事で、絵画を3Dスキャンして3Dプリンタで複製する話題を読んだところだったのだ。コンピュータと絵画との関係はCGや絵画のデジタルデータ化の文脈で語られることがほとんどだと思っていたので、この記事はデジタルファブリケーションに触れるところから始まっていたことに驚いた。つまり、3Dプリンタによって生み出されるのは彫刻だけじゃなく、絵画もたしかに3次元のモノだった。
http://www.nytimes.com/2013/10/24/arts/international/technology-mimics-the-brushstrokes-of-masters.html

機械の目で計測・透視して得たデジタルデータと3Dプリンタを用いた複製技術によって、絵画の立体的な振る舞いがコンピュータで再現されつつある。筆で塗り重ねた凹凸やその向きが再現できる、ということは、既存の絵画を複製するだけでなく、CGとして新たに厚みを持つ絵を描いて、3Dプリンタで出力するということもできるわけだ。きっとそれも、CGを経由して出力された絵画の、モノとしての存在感を支えてくれるように思う。

絵画の3Dプリンタによる複製の事例はふたつある。ひとつはデルフト工科大学(オランダ)の研究で、ニコンのカメラ2台でつくったステレオ撮影システムでレンブラントやゴッホの絵画の表面の色と深度情報をキャプチャしている。X線その他電磁波を用いたスキャン結果とも併せて色の検出精度を高めているようだ。ステレオ撮影システムについては製作者である博士課程学生 Tim Zaman 氏のブログに詳しい( http://www.timzaman.com/?p=2606 )。3D出力はキヤノングループのオセ(Océ)が担当。Zaman 氏によると、この方法では絵画の輝度や細かな粒子はまだ再現できずオリジナルにずっと及ばないが、単なる2Dのポスターよりはずっと進んでいるという。複製の対象としたレンブラントの絵はアムステルダム国立美術館の協力、ゴッホはクレラー・ミューラー美術館の協力、ってここ僕は行ったことあるね、そういや( http://www.kmm.nl/jp/ )。2004年の七夕の頃だ。クレラー・ミューラー美術館で僕が覚えてるのは、茶色がかった美しい空の絵があって、そのときオランダの旅で見た空も実際そんな風な色をしているときがあったということだった。

もうひとつは、富士フィルム・ベルギーとゴッホ美術館の展開している Relievo。ゴッホの作品について、その大きさ、色、表面の凹凸等を3Dスキャン、3D出力した複製画に加え、額縁の裏面に書き加えられた文字やスタンプなどもすべて再現する。額縁に収められた絵画をぜんたい複製するのである。7年がかりの仕事で、ゴッホ美術館のアドヴァイスを受けながら再現性を高めたという。
http://www.fujifilm.eu/eu/news/article/news/premium-three-dimensional-replicas-of-van-gogh-masterpieces/

なにゆえ絵画を複製しようと思ったのかといえば、ゴッホ美術館については多くを自己資金で運営しているという経済的な背景によって、これで商売することが狙いであった。ただ、Relievo は複製であるからオリジナルよりも手に入れやすいし、ちょっと触ってみたっていい。それで絵画から刺激を受けたり、理解が深まることもあるだろう。そうしたことをできるだけ多くの人へ届けたいというゴッホ美術館の使命にも Relievo は適っているのだという。

アムステルダム国立美術館のほうは、複製技術が絵画の修復や研究、商業目的に有用なのかどうかを知りたかったという。デルフト工科大学とオセは、絵画の修復や研究に役立てることに興味がある。例えばそれは、ダメージを受けたオリジナルの絵画を元の形に近づけて複製展示できるかもしれないということ、あるいは絵画を遠方へ貸し出してから帰ってくるまでに受けたダメージを3Dスキャンによって計測することもできるだろうということだ。

 

僕らが身近に触れることができるのは、壊れやすいものだから。

 

絵の具は大きく描いても空間が間延びしない凹凸を多かれ少なかれ伴っている。そこには見つめれば細部へと入ってゆける楽しみもある。また、照明や見る角度による変化もある。少女画展を訪れて僕は、いつかCGでもそんな風に大判出力できることが当たり前となって、複製されたそれが僕の手元にあって、触れられるような距離で、十分な肌理を伴ったその表面を、飽きもせず眺めていられるような時間と場所があれば、それは小さくてだけど夢みたいな世界だろうって思った。

(2013年10月26日)