あの娘はかわいいもち屋の佐保姫

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1.

五月の連休中、法事にあわせて奈良へ帰ってきた。祖母がこのごろ東京にいる僕のことを、いったいどうしているものかふと考える時間が多いのだと聞いていた。孫は僕のほかにもいてしばらくはそちらへかかりきりだったから、さて、また僕のことが気がかりになるというのはなにか魂のようなものが呼ばれているようで、帰らなくちゃいけないと思ったのだ。

東京から奈良へ。いつものように東と西を行ったり来たりのお話である。在原業平が東下りし、菅原孝標女が都へ上り、鈴原泉水子さんが東京へ向かうその東西である。

今日は祖父の七回忌だった。和尚(オッ)さんは京都の学園で先生をされていて、連休中も忙しいなか来てくださった。ぼんやりの僕は数珠を忘れてきて、和尚さんが唄うようにあげる経をただ坐って聞いていた。祖母も僕の隣でときどき唱和していた。お坊さんは声がよくなければ務まらないと思った。

お膳を出して、お供えをわけて、うちにもおもちが詰められた。奈良のこのあたりといえばおもちという感じがある。どこで買ったか訊いてみるとうちの近所のおもち屋さんで、ふつうの町なかにおもち屋さんが交じっている。ようこそ、うさぎ山商店街へ。

 

2.

午後からPant-selさんと合流して薬師寺へ。金堂では人を集めてお坊さんの法話があった。今日はよくお坊さんの話を聞く日だと思った。話はなかば漫談のようで面白くなっており、最後にお代として二千円の写経一巻が勧められる。かつての管主、好胤さんも話が上手だったとあとで母から聞いた。さきの話は薬師寺十四人のお坊さんのうち最若手による法話芸であった。お坊さんは話もうまくなければ務まらないと思った。

薬師寺では連休中の法要にあわせて野点が行われていた。僕らは関係ないものと思って西塔のあたりをぶらぶらしていたが、そこで元気のいいお姉さんに捕まった。九十四歳、僕の祖母より少し上であるが、おひとりで来られていたようだ。野点の招待券があるからと僕らに二枚渡して帰ってゆかれたので、僕らは代わりに会場へ向かった。そこでまた柏もちが出てきた。今日はお坊さんとおもちばかり出てくる日だと思った。

 

3.

Pant-selさんと別れて僕は佐保山のふもと、一条通へと向かった。京都一条戻り橋の伝承が知られているが、奈良にも一条通がある。どちらも条坊制の都であるから一条通、三条通、と同じように名を残している。佐保山は僕がゲームで吉野佐保姫と出会って以来、気にかけてきた土地である。奈良の北端から京都の木津あたりまで広がる丘陵を平城山(ならやま)と呼んで、その平城山の南端が佐保山である。松永弾正の多聞山城もその一部といっていいだろう。どこからどこまでが佐保山なのかはっきり決められてるものではないが、地元人の母に確認したところだいたい一条通から北へ広がる丘は佐保山と呼んで差支えなさそうだ。


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京都からやってくるJR大和路線は佐保山の西端に沿って走り、一条通の手前で少し東へカーブする。このまるく張り出したあたりに在原業平ゆかりの不退寺がある。

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西側の麓に大和路線が走る。

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大和路線の踏切から不退寺の森、奥まったところに南門が見える。

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不退寺本堂、室町初期に再建。柱に刀傷のようなものも残るといい、古きを偲ぶ静かな土地柄というばかりではなかった。

不退寺の住職さんらしき方に伺ってみると薬師寺のみなさんとは交流があるという話になって、いまちょうど薬師寺から来たところなので縁は繋がるものだった。前に薬師寺の古い資料から不退寺の名前が出てきたそうで、薬師寺の末寺である時代もあったことが判ったという。興福寺の末寺だった時代もあり、いまは西大寺の末寺である。お寺の立場も時勢によって変わってゆくものである。近隣に真言律宗西大寺の末寺は多く、海龍王寺、元興寺極楽坊、般若寺、やや離れるが京都の浄瑠璃寺岩船寺もそうで、諸寺持ち寄って大祭を行う。不退寺も五月の業平忌には周りのお寺からの手助けを受けて盛大な法要を行う。

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業平ということで杜若(カキツバタ)かと思わせるが、残念、菖蒲(キショウブ)でした。いずれ菖蒲か杜若。

不退寺は平城天皇が晩年を過ごした萱の御所の跡に建立されたと伝えられる。住職さんによると、古墳時代の面影を残す佐保山は人が隠棲する気持ちに寄り添うものだったのではないかということだった。不退寺は平城天皇の孫である業平の開基とされている。

現在は一条通からすこし奥へ入った場所にあるが、お堂の裏の竹藪に溝や土塀の跡が残っており、おそらく昔は佐保山のふもと一条通から裏の竹藪あたりまでの丘一帯が境内だったのでは、と仰っていた。失われた記憶や記録は少なくない。いま本堂の中にはお伊勢さんの祀られた一角があり唐突な感じがあるが、もとは境内の別の社にあったものが移されたのだという。お伊勢さんがやってくる前は本堂のその場所になにかあったはずであるが、もはや失われてしまっている。お伊勢さんの社も不退寺が建立される前からそこにあったのではないかとは住職さんの予想。古いものの上に新しいものがやってきて、失われたり埋まったり混ざったりしてゆく時間の層が丘陵を成している。

不退寺は八年ぶりに訪れた。前にも副住職さんとお話させて頂いて、そういえば今日も同じ方だったかも知れないと後になって思い当った。

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なりひらばし。東京にも東下り伝説にちなんだ業平橋がある。業平橋の駅は現在とうきょうスカイツリー駅と名前を変えた。

 

4.

不退寺から東へ歩いてすぐのところ、佐保姫ゆかりの狭岡神社も八年ぶりである。佐保姫が姿見につかった鏡池というのは前回、枯渇の危機に瀕していたが、その四か月後に保水工事の行われたことが今回判った。いまではいっぱい水をたたえて、金魚など気楽そうに泳いでいる。

f:id:kgsunako:20130505025612j:plain 2005年1月

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佐保山に由来して春の女神とうたわれる佐保姫と、記紀に伝わる狭穂姫と、佐保山に位置する狭岡神社に伝わるサホヒメとは、地理的なこと、音が同じことからすっきり分けられない感じを受けていた。しかし鏡池に立つ掲示で八年前には佐保姫となっていたものが現在は狭穂姫と修正されており、記紀の伝承地としての碑も建てられた。記述の上では狭穂姫が採られるようになったが、境内のほかの場所を見ると春の女神としての佐保姫と関連づける情報紙のコラムが掲示されていたりする。この土地に限っていえば、佐保姫と狭穂姫とはどちらとも取れるものとしておくほうがミスティックだと思う。

 

5.

ところで、荻原規子さんの東西の旅はRDGのほか薄紅天女に現れる。薄紅天女菅原孝標女更級日記に想を得ており、順を追えば、都に住む菅原孝標女の思い出のなかにある、幼いころ東国で人づてに聞いたたけしば伝説を、さらに荻原規子さんが語りなおしたのが薄紅天女に描かれる東から西、西から東への人の往来である。それは伝え聞き継いだ、幾重にも夢のようなところから生まれてきた物語である。

紅天女において、たけしば伝説の皇女さまは長岡京のころ、安殿皇子の妹として描かれる。ここの兄妹は見どころで、病気の兄がうわごとのように、東国からくる天女さまが救ってくださる……と言うものだから、妹さんのほうは、これはいけない、大好きなお兄ちゃんを自分がなんとかしようと旅に出る。そして、このお兄ちゃんこと安殿皇子が、のちの平城天皇、つまりは在原業平の祖父に当たる人物である。更級日記伊勢物語に描かれる東西の往来の物語を血筋で繋ぎとめたのが荻原規子さんの独創で、面白いところだと思う。

佐保山自体も東西の要素を備えており、平城京から見て西の竜田山に秋の竜田姫、東の佐保山に春の佐保姫、という神格があると言われている。薄紅天女と重ねて空想するならば、平城天皇は幼いころに夢見た東の天女を、東の佐保姫の姿に重ねただろうか。そんなことを思いながらじっさい佐保山へ登ってみると、思いもよらぬ眺めがあった。

佐保山から、平城京の大極殿が見えるのである。考えてみれば当たり前のことであるが、いまは第一次大極殿が復元されているので、それを目で確認できるのだ。細かいことを言えば第一次大極殿は平城天皇の時代にはもうないが、萱の御所のあたりからも平城京の大極殿があったあたりを眺めることが出来たのだと判った。佐保山の西の端に建つ不退寺の、その前にあったであろう萱の御所の目線は、東どころかまったく西の、旧都のほうを向いていた。

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正面真ん中に大極殿の屋根が見える。

 

6.

うちへ帰ったらさっきのおもちがお雑煮になっていた。今日はどうやら本当にお坊さんとおもちに尽きる日だった。

僕は明日の朝、新幹線で東京へ帰る。西で見た話を東へ持ち帰って、それがまた何かと繋がるだろう。

 

次回はどんなおもちが食べられるかな。

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(2013年5月4日)