秋葉原のラブライブ・イヴ

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1.

故郷のスーパーマーケットが本日で閉店になった。ちいさい頃よく連れられていった場所で、改装のときすでに名前も建物も変わってしまったのではあるが、あの場所からスーパーがなくなってしまうことは僕の記憶する街の、かつて在ったその層がまた深くなっていったように感じられた。

正月、帰省した際に聞いてはいたが正確にいつ閉店なのかは意識してなかった。本日閉店の知らせは関西からTwitterのタイムライン上を流れてきた。僕が東にいるときは西のことを思い出して西にいるとき東のことを思い出すというように、思い出を探るときはいつも西と東を行ったり来たりになるのだがその話は折にふれ伊勢物語や竹芝のことで書いてるし、また今度まとめようかと思っている。

本日は東京なう、秋葉原の話である。何十年も経てば街なんてどこかしら変わってく。ただ、秋葉原の変化は電気や映像できらきらしている。だから秋葉原は変わった、なんてわざわざ言われるんだろう。変化というのは何か原因があってその結果だ、とは必ずしもそうでないが、あのときこうだったら別の秋葉原があったのではないか、大きな変化はIFを喚起する。だからシュタインズ・ゲートの秋葉原ではIFの世界線が絡み合っている。

秋葉原に関する一番古い記憶は、受験で関西から出てきてはじめて東京を一通り見て回ったとき、どうやらあのPiaキャロットレストランがあった1999年のことであって、最近になって掘り出した写真からそれと判った。なるほど、そうでもなければ秋葉原には行かない。だって大阪の日本橋で足りてたからさ。そうは言っても次の年、東京へ来てからは週に何度も通ってた。駅前にはまだ大きな駐車場があった。それが青果市場の跡だというのはずいぶん経ってから知った。秋葉原の風景は過去の市場移転のときにも大きく変わっていると思うが僕にとってはやや遠い話だ。その市のことはUDXレストラン街のアキバ・イチという名前でときおり思い起こされるだけだ。ラジオ会館すら僕にとってはもうK-BOOKSがある建物という認識だったので、電子パーツがひしめいてるのを横目に布物グッズを漁りに訪れた。

人工衛星の突き刺さったラジオ会館は建て替え工事のためもはやない。シュタインズ・ゲートで描かれた風景はUDXとラジオ会館という新旧ランドマークが同時にあった5年間を記録している。発売時期を考えるとこれは偶然であるが、秋葉原を描こうとすればそういう風になるものかもしれない。

僕は大学を卒業して関西へ戻ってからまたどういうわけか秋葉原と関わりをもって西と東を往復していた。駅前の再開発が目に見える形となって、市場の跡地、僕にとっては駐車場の跡地であるが、そこでUDXやダイビルの工事が行われていた頃のことである。それで、この当時を思い出すきっかけになったのが今はまた東京にいる僕が見ているアニメのラブライブ!だ。

 

2.

ラブライブ!には1月からのテレビアニメで初めて触れたが、秋葉原の学校が舞台であるとはどこかで聞いていて、秋葉原で近年廃校となった千代田区立練成中学校の話が記憶から甦ったのだった。また、UTX高校というのは見た目のモデルがUDXであり、この練成中学とUDXには少々縁があったことも思い出された。

練成中学は2005年の3月一杯で廃校となったが、その校舎は2006年の秋葉原UDXオープンまでの間、ミュージアムとして利用されていたという経緯がある。というのは、UDXビル内にはかつてデザインミュージアムの設置が計画されており、それに先行して空き施設を利用した活動が開始されたのだった。

http://web.archive.org/web/20060516070612/http://www.d-akihabara.jp/pdf/0722/press_rensei.pdf

デザインというのは、ラジオ、オーディオ、家電の生まれた時代背景、設計の思想とアイデア、そうしたもの全てを含んで、いずれも秋葉原とは縁が深い。その展示と探索のための空間が秋葉原に構想されていた。

UDXのデザインミュージアムはその後わけあって頓挫したと聞いているが、練成中学のほうは改装されて2010年にアート活動の集う場として生まれ変わっていたことを、今月になって知った。空き施設を活用するという思想のほうはずっと生き残っていたのだ。

ラブライブ!の廃校話とUTX高校の姿を見ると思い出されるのは、僕にとって懐かしいそうした出来事だ。デザインミュージアムが秋葉原にある世界線を当時の僕は未来に見ていた。

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UDXオープン後しばらくの間は、UDXにもデザインミュージアム関連の展示が置かれていた。写真はアキバ犬の群れ(2006年7月25日撮影)。

 

3.

それで今日は実際、廃校跡を訪れたのだった。冒頭の写真がそれである。校庭は公園に、入り口は階段を昇った2階で、職員室らしき部屋がカフェになっている。思ったより人がいる、というのが第一印象で、校内をうろうろしているうちに、部屋のどこもかしこも人がいてなにか活動しているのだということが判ってきた。

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1階へ降りてみるとデジタル一眼を両手で抱えた小さな女の子が廊下を走っていった。なにか被写体を探してる風だった。カメラ小僧、というのは少し前に根津神社でも見たので、デジタル一眼の影響でまた新しいカメラっ子も生まれたものだなと思っていたが、そのまま廊下をゆくと面白いことになってしまった。

実は、写真のワークショップが行われていたのだ*。写真家のみなさんが中心となって、東北をはじめ各地を回っておられる。そこでカメラの使い方と、どんな風に撮るといい具合になるか、写真と文章の組で表現することなどを参加者に伝えて、それぞれ街を撮るのだ。小学生、高校生、大人、いろんなひと。ここで撮られた写真は校内の階段やガラスの世界を切り取ったもの。あとは校舎のまわりの空。練成中学は秋葉原電気街の北端・末広町の交差点からたった50メートル入っただけの場所であるが、景色はもうきらきらでなく毎日の暮らしの空だ。大阪日本橋でいえば市立日本橋中学校あたりを思い出せばいい。(だけど、あそこももう変わってしまったかもしれない。)

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秋葉原と日本橋のクロッシング・ポイント。
・・・・・・ではなく、大阪のほうはNipponbashiである。東京ではまずこれに慣れない。

この地域にはあらぶんちょ!というコミュニティ放送があるが、去年のこと、テレビをつけたときにたまたまこれとは別の写真ワークショップが紹介されていた。メディア・コンテと呼ばれる活動で、こちらは電気街の外ではなくど真ん中、真空管時代のオーディオマニアの人々の記憶が写真とともにつづられていた。僕には見えていない、秋葉原の姿がある。

さて、いい写真を撮る、というのは身構えるところもあるだろうけど、写真家のみなさんはときに陽気であったり、真摯であったり、経験でもって自在に場を支えてくださるのが東北でのワークショップ記録映像を見たりこの日の写真発表会に参加させて頂いたりして判った。日々の暮らしとはちょっと別のことをする、それは写真を撮るだけでなく絵を描くということも、空想をするというのもそうであるが、そういうことを始めたり、出来上がりまで維持するのは難しくて、描線がおかしいように思えたり、まるで解けない妄想になってくると壊れてしまう。そういうときただ傍にいるだけでも支えとなるような力をもっているのが芸術家なのだと僕はある先生との出会い以来、思っている。

巡回は東北にはじまり、今回の東京、新潟、横浜、と続くそうだ。昔はこうしたワークショップがその場その場での活動となって繋がりを持つのは難しかったが、いまはFacebook上で行われている。僕も関西の思い出をネット越しに東京で組み立てている。

*「I TIE☆会いたい」写真ワークショップ・3331Arts Chiyoda

 

4.

その後、UDXの東京アニメセンターラブライブ!展があったことを思い出して中央通りの歩行者天国を抜けていった。

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デザインミュージアムのアキバ犬が並んでいた辺りもこの世界線ではラブライブ!が並んでいる。ここまで手ぶらでやって来たが入学案内やらグッズやらで荷物が一杯になった。

入学案内によると、ラブライブ!の音ノ木坂学院は「秋葉原と神田と神保町という3つの街のはざまにある伝統校」である。校門前の高い階段は本郷台地の崖であろうから、御茶ノ水にたくさんある階段や坂のいずれかなのだろう。そういえば御茶ノ水は音楽の街で、楽器やレコード店が並んでいる。

写真も絵も、空想も、音楽も。学校のふつうの日々ではありえないステージに立つこと、それを始めたり続けたりするときに支えてくれる力というのが、テレビアニメの高坂穂乃果さんには生じてくるのかもしれない、と第3話を見て思った。

 

 

ところで、ランチボックスのようなグッズは僕が本来の用途通り使う機会はなさそうであるが、箱状のものは容易に部品入れへと化ける。買ったものは積んでおくよりもどうにか使おうというのが僕なりの秋葉原である。

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(2013年1月20日)

花咲く佐保姫のための嬉遊曲

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佐保姫というのは春の女神の名前であるが,奈良の高校野球界ともやや奇縁を結ぶ.1991年春のセンバツ大会に出場した奈良高校のおとなりに佐保姫ゆかりの狭岡神社がある.あたりを佐保山と呼ぶ.

 

2005年のこと,狭岡神社,佐保姫の鏡池など旧跡を巡ったすぐ後に,たまたま花咲くオトメのための嬉遊曲をプレーした.とはいうものの僕が吉野佐保姫のこと大好きになったのは佐保山での体験は関係なく,そちらはすっかり忘れていた.後になってから,あれ,そういえばどちらも佐保姫だなぁ,とめぐり合わせのあることに気づいたのだった.

 

氷室乃雪は遠ざけておきたい感じの人だったが,「アストロ滑走団でわかる恋愛の才能」と題した原稿を書くために彼女の言葉を引き写してるうち,僕の胸のなかに居場所ができていた.

 

小松葵はアストロ滑走団(花咲くオトメのための嬉遊曲 イレギュラーズ収録)からファンになった.中山嵐と小松葵の会話はふたりとも気配りの人だからか心地よく響く.あとロマンティック.望遠鏡はひとりで覗くものなので嵐の来訪に対して葵はレンズから目を離す.ふたりで見るべきは星じゃない,星空なんだ.

 

アストロ滑走団でわかる恋愛の才能

疏水太郎


初出:『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+』
(theoria,2010年8月15日発行)
http://d.hatena.ne.jp/then-d/20120618/1340112564
夏葉薫論より

 

1. 序論

 

自然性を欠いた恋愛の描写は夏葉薫の持ち味として自負されている。本稿ではこの意識が恋愛以外にも拡がる様子を示すことによって恋愛ゲームシナリオライタ夏葉薫の射程を明らかにする。

 

恋愛ゲームにおいて恋愛の在り方に注意が向けられることは珍しくない。人はいつどのようにして誰かを恋愛という意味で好きになるのか、恋愛に理由を定めることができるのか、恋愛とは何か? という命題がそこにはある。恋愛ゲームに恋愛の命題は必須でないにせよ、ときにその水準を示すことは恋愛ゲームシナリオライタの本懐だろう。夏葉作品のなかで恋愛の命題といえば『花咲くオトメのための嬉遊曲』シリーズ(以下嬉遊曲と略す)に含まれる「夏子を巡る対話篇 」が際立っている (*1)。これは主人公の大宰信とヒロインの一人、氷室乃雪によって紡がれる対話篇であり、純粋な恋愛がどのようにはじまりどのように在るべきかを語り、そこに純粋ではない自分たちが歩む道を定めてゆく。詳細は次章に譲るがまずはこの対話が存在感をもつ理由としてアニメソングで知られる枯堂夏子の詞を縦横に引用しながら進める異様さを挙げておきたい。

 

嬉遊曲における夏葉薫の癖の強さは氷室乃雪という人物によって代表されている、と本人のコメントから察することができる。「予定通り、という感じが強いです。というかこの阿呆を許せなければ『花咲くオトメのための嬉遊曲』という癖の強いゲームは受け入れようもないわけで、一位はある種の必然ですね。」(『花咲くオトメのための嬉遊曲フルカラービジュアルファンブック』p.18より)ここで氷室乃雪が阿呆である理由の片棒は「夏子を巡る対話篇」だろう。恋愛を詩趣あふれる歌詞でもって観念的な高みへと押し上げようとするのは考えすぎで、この阿呆、と親愛をこめて呼びたくなる。なぜならば、もう半分の彼女は打棒によって本塁打という実際的な結果を生み続けるのだから。この両極端め!

 

夏葉薫の自負を示すものとして本人のブログ記事(http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20080507)も紹介しておきたい。『恋魂詰』の星乃京ルートその1の紹介として「いつものです。後ろ向き男子と明後日向き女子の恋愛行動/CODE-L。俺のファンにはオススメ!」とある。ここでCODE-Lとは次のような星乃京の恋愛観を窺わせる造語である。

 

「love、と恋愛、はどちらもLからはじまる、って思うと不思議よね。愛とamourはどっちもAからだけど」

「恋、っていうより、恋愛、っていうちょっと突き放した言い回しのほうが、ひょっとして、loveっぽいのかも知れないわね」

「近代的な恋愛のコード、は明治以降に学習されたわけ」

「で、それがある種の自然性を欠いた行動として現象するのは日本人の必然……とまでいくとトンデモか」

 

CODE-Lとは、Lからはじまるとりとめない言葉遊び、しっくりこないまま遂行される恋愛のコードを意識すること、そして恋愛ってなんだっけかと恋愛のさなかにいちいち考えてしまうということ、そんな星乃京の明後日向きな様子を指すものであろう。

 

しかし、夏葉薫が人の不自然な在り方を採り上げるのは恋愛に限ったことではない。「アストロ滑走団」は『花咲くオトメのための嬉遊曲 イレギュラーズ』に含まれる章の一つで、嬉遊曲本編ではサブヒロインだった中山嵐と小松葵のスキー旅行における交友が描かれている。ふたりの対話として構成される点、対話の場が野球部活動ではない点において「夏子を巡る対話篇」と似た印象を受けるが、その内容は恋愛に留まらず、入部の理由、そしてふたりが友人としていま雪原に立っている理由にまで到達する。ここで、彼女らは関係のはじまりについて考えている。いや、はじまりについて考えすぎてしまっている、と言い換えたほうがよい。中山嵐は小松葵から野球部へ入部した動機を尋ねられて考えこんでしまう。

 

「どうして、野球部に入ったんですか?」

「紅葉に頼まれたからだが」

「ソフト部の正ショートなのに?」

「んー、まあ、なんだろうな、それは。確かにソフト部でずっとやってりゃセレクション回ったりしなくてよかったんだろうが」

 そこで、俺は言葉に詰まる。

 色々と細かい事情はあったんだが、今振り返るとどれもこれもそこまで決定的だったようには思えない。

「あー、なんだろうな、改めて聞かれっと、困るな」

 

普段は「紅葉に頼まれた」という理由で納得できているのだけど、改めて考えようとすると何だか判らなくなる。不自然に考えすぎてしまうような関係のはじまりについて論ずるとき、夏葉薫の射程は恋愛関係にとどまらず同性の交友関係にも届いている。そもそも恋愛について語るということは、より丁寧に進めるならば恋愛でないものについても語り、恋愛とそうでないものとの差異を明らかにしてゆくことであろう。本稿ではこの夏葉薫の丁寧さに注目し、そこで何が語られているのかを確認してゆく。

 

 

 

2. 恋愛のはじまりと「夏子を巡る対話篇」

 

まずは「夏子を巡る対話篇」で提示される恋愛のはじまりについて復習する。「夏子を巡る対話篇」が採り上げる枯堂夏子作品は主に「恋愛の才能」であり、氷室乃雪はそこに恋愛の純粋な体験を見出している。

 

 「『好きだよ』と 言わないで」

 「ねえ また いまも 目が合ったよね 目をそらす 瞬間が Ah 好きよ」

 「『恋人』と呼ばれたとき もう それは 恋じゃないのよ」

 (「恋愛の才能」より)

 

告白しないこと、目をそらすこと、名付けられないこと。そんな風に恋愛が明示的に表現されないことによってこそ、表現になる前の胸の高鳴りを純粋なまま抱えていることができる、これが作中で枯堂夏子第一のテーゼとされる「恋愛とは互いに孤立せる状態」だ。そして、孤立せる状態のふたりの恋愛がどのように可能になるのかという問いへの応えが第二のテーゼ「所与としての恋愛」である。第一のテーゼは「恋愛の才能」に既に書かれた内容の整理であるが、第二のテーゼは第一のテーゼで残る疑問に対して示された新しい答えである点に着目したい。ここで所与とは一体どういう意味であるのか、孤立しているふたりの恋愛はどのようにして可能となるのか、以下、大宰信と氷室乃雪の対話を追いかける。

 

「出会われる事は意志を越えた出来事であり、それこそは恋愛が世界からの祝福である証左だ、と」

「そうそう。

 これが枯堂夏子第二のテーゼ『所与としての恋愛』よ」

(中略)

「好きになったらしょうがないんだろ?そして好きになる相手は選べない。ならば、恋をする前から悩む必要なんてないのさ。悩もうが悩むまいが、予感もなく恋は来る。好きになってしまったあとに、恋愛の純粋形を貫くか、それとも堕落した恋愛関係に耽溺するか……。その選択権くらいは君の手の内にあるし、所与、さだめであるのならば、恋愛はそれ以上の自由を君に与えたりはしない。君が俗物である事に君が恋愛家であることは圧倒的に先行する。

 だから、好きなら好きって言えばいいのさ」

 

互いに表現を交わす意志のないふたりが出会えるのだとすれば、さだめとしか言いようのない、まるで恋愛家が謳うような、祝福ともいうべき恋愛の純粋形が僕らの意志よりも前に存在するのだとしか思えない。ここで所与とは恋愛のはじまりを支えるその出会いのさだめである。

 

 

 

3. 交友のはじまりと「アストロ滑走団」

 

さて、はじまりについて再び考えよう。僕らは何年何月何日から友人になったのだろう。その関係はいつか親友というものに変わるのか、あるいは恋人になるのか。そもそも友情ってなんなのか。そんなこと毎日考えてはいない。日々をともに生きるふたりがその関係のはじまりについて考えてしまうのは何か特別な機会があってのことだ。「アストロ滑走団」では部活動以外のプライベートな付き合いをあまり持たなかった中山嵐と小松葵のふたりが、卒業旅行の場でようやく出会いのきっかけである入部の動機について語り合い、恋の話を経由して、自分たちの交友のはじまりにたどり着く。

 

まず、入部の動機に関する話は次のように結ばれる。

 

「今、結構楽しいですから、そうなるとダメですね、理由とかどうでもよくなっちゃいます」

「でも、それは今だけかもな。四月になったらまた新たな気苦労が待ってるわけだ」

「そうですね。中山さんともお別れです」

「そうだな。お互い、五月早々に理由探しなんか始めないようにしたいな」

 

彼らの日々の楽しさは、いまやっていることの動機が判らない状態に等しいと捉えられている。だから、理由探しなんか始めることにならないほうがよいというのだ。しかし、小松葵は恋をしてしまうと日々のあらゆることに因果関係があるように思えてダメになってしまう。たとえばそれは恋愛の動機を原因とした恋愛行動。

 

「葵は……どうかな。恋、しちゃったらもうダメですから」

「そういうもんか」

「恋してると全てが因果関係に見えてきちゃいません?」

「よくわかんねえけど……運命を感じる、みたいな?」

「運命。そうですね、物語になっちゃうんですよ、なんか。別れちゃうと自分が何考えてたのか全然分かんなくなっちゃうんですけど」

 

そしてまた、別れると動機が判らなくなってしまう。「多分、動機なんてのは、それがあってしまうような気がする時にだけ、俺たちの人生でリアリティを持つのだろう。」(中山嵐)つまり、恋している間にだけはじまりの動機がある。恋をする前後に動機はない。この説に従うならば恋愛のはじまりについてあれこれ考えている最中の氷室乃雪や星乃京は現役の恋する乙女である。

 

中山嵐と小松葵のふたりがたどり着くいい関係とはつまり、理由探しを伴わない。

 

「……そうしてみると、こうしてなんとなく出会ってなんとなくここにいる私たちっていい関係なのかも知れませんね」

「そういうもんだろ、友達ってのは」

「友達。そう、そうですね」

 

「夏子を巡る対話篇」と「アストロ滑走団」において、ふたりの関係のはじまりは僕らの意志に先んじて在るものによって支えられている。それはわけもなく出会ってしまうこと、たまたま同じ部活動だったというような所与の状況である。氷室乃雪はこの先行性について「パーティーナイト・2」でも次のように意識している。

 

 ああ、と愚かしくも私はこの時はじめて思い至ったわけである。私も成林女子野球部だと言うことに。彼女が私とこうして話しているのはそれだからで、私が彼女とこうして話しているのもそれだからだ。実に実にシンプルな話だった。

 私は紅葉を抱きしめたい気持ちを抑えて、微笑み混じりに返事をする。

 

「パーティーナイト・2」は大井紅葉と氷室乃雪のお泊まり会における交友を描いた章である。微妙な関係のふたりがその夜、友人みたいに一緒にごろんと寝転がっていることのわけは、ふたりがお互いのことをどう思っているかという以前の、ただ単に同じ部活動だったという点に求められている。

 

「リーディングストーリー光徳学院編」(『花咲くオトメのための劇伴音楽』に収録のドラマ)も「アストロ滑走団」と似ている。

 

 私と築地は、複雑だった。投げやすいセカンドで、頼れる一番打者で、カラオケ一つ一緒に行った事がなかった。

 くすくすと笑い合う。

 それから、部室で後輩たちに送り出されて、一緒にカラオケに行って、バッティングセンターに行って。

 それから。築地とは一度も会っていない。

 

卒業の季節、部活動以外では気心が知れなかった相手との、友人と呼べるかどうか判らないが一緒に過ごすことは出来た三年間が、言葉にするには難しいものの微笑とともに閉じられている。

 

 

4. そして、考えすぎてしまうこと

 

それにしても、君が僕と、僕が君と一緒に居たいということが自ずと明らかであれば、ふたりの関係のはじまりについて改めて考える必要はないのだ。夏葉薫が繰り返し提示するのは、しかし僕らにとってそれが自明でなく不自然なまでに考えすぎなくちゃならない時があるという事情だ。

 

星乃京のCODE-Lのように、恋愛が不自然に立ち現れることは必然、とは確かに言い過ぎかもしれないが、恋愛のコードの学習については『姫さまはプリンセス』でも再び採り上げられている。ブルムランドという国には恋愛に相当する言葉がないため、その王女は不自然な恋愛行動をとってしまう。これは夏葉薫のアイデアかどうかはっきりしないもののCODE-Lの考え方と共通している。

 

また『春萌~はるもい~』の風間沙緒の場合、巫女である自分と神との関係が自明でないために、ブランコからジャンプするという不自然な神事によってそれを問うことになる。

 

「平たく言えば、実験」

「ああ」

「信仰を獲得できるかどうかの」

「君が、てこと?」

僕の言葉に、彼女が無言で頷く。

「それと一人で飛ぶことにどういう関係が?」

「人前で敬虔ぶる事だけが信仰ではないはず。どう考えてもくだらない神事に一人で熱中できるとすれば、それは」

「内面化された信仰のあらわれである、と」

 

恋愛も、交友も、信仰さえも。ならばこのようにしよう。夏葉薫第一のテーゼは「ふたりの関係について不自然に考えすぎてしまう必然」である。

 

しかしこの不自然さは悲しいことなんかじゃない。星乃京の言葉を借りるなら、風間沙緒は自らコードを創り出す。それはブランコから雪山へ向けて顔面ダイブするという不自然な神事、あるいは「コミュニカシオン」という言葉で取り結ばれる恋愛のルールである。

 

「コミュニカシオン」

ルールは単純だ。

コミュニカシオン、と言い続けられる限りにおいて、相手の身体に触れる事が許される。

息が切れたら、それは終わりで、攻守交替。

どうしたら得点なのか、何が勝利条件なのかはきっとおいおい分かるだろう。

僕たちがゲームを始めるために必要なのは、簡単な規則がいくつかと、そしてゲームをする意志だけだ。

「コミュニカシオン」

沙緒さんを引き倒す。

 

理由なんてない。不自然な規則ならばこそ、自分の意志で決めた規則じゃないととぼけることが出来るのだ。

 

夏葉薫第二のテーゼは「関係のはじまりはふたりの意志より先に在るものによって支えられる」ということだ。ふたりの関係を確かめあうこと、それは恋愛であれなんであれ不安なことである。そうした自然のままの自分の臆病さを知ればこそ、自分の意志に先んじて在るなにものかを意識することで不自然に勇敢であろうとする。

 

意志に先んじて在るはずのものが実は自分の意志で生み出されているという回りくどいこともある。そんな人の愛すべき振る舞いがここでは活写されている。

 

さて、「ふたりの関係について不自然に考えすぎてしまう必然」そして「関係のはじまりはふたりの意志より先に在るものによって支えられる」こと。以上でようやく白鳥可菜子を可能とする前提が揃った。『姫さまはプリンセス』の遠藤忍と白鳥可菜子は姉弟のような関係であったとされている。しかし、

 

忍「ボクと可菜子はいつも一緒にいたので、恋人だと誤解されることが多々ありました。」

忍「それにつられてでしょう。ボク自身、その気になったことがありましたが……」

忍「結果は、可菜子の言った通りです。」 (*2)

 

藤忍は姉みたいだった白鳥可菜子に対して、不自然な恋愛行動をとってしまう。一方の可菜子はそれが勘違いだとあらかじめ判っていた。

 

昔、ボクはこの胸に触ったことがある。

あくまで、服の上から。

デートの真似事をして、拙いキスをして。

昔のボクらは、今よりきっとずっともっと不可解だった。

 

その結果、再び姉弟の関係に戻ったふたりは、時をおいて身体を重ね、そして結婚することになる。しかしその関係は恋ではなかった。少なくとも遠藤忍はそう認識していた。

 

ボクは多分、可菜子に恋をしたことはなかった。

可菜子がボクに恋をしていたのかは、わからない。

それでも、ボクらはいつも一緒にいて、寂しい夜には求め合い、楽しい夜にはじゃれ合った。

仲が良くて、セックスをしていれば恋人ではないのか。

懐かしき遠国の姫はそう、ボクに問いかけた。

今は、その答えはわからない。

けれど、恋愛なんて言葉がもしなかったとしても、可菜子とボクは一緒にいただろう。

 

恋愛かそうでない関係であるかはどのようにしてあらかじめ判るのだろう。可菜子にはそれが判っていた。恋愛が意志よりも先に在るさだめに支えられるのだとすれば、恋愛でない気持ちにも同じことがあるのだろう。

 

可菜子「だから……私にしなよ。恋愛と結婚は別だよ?」

可菜子は。

ボクの下で、ボクをがっちりとつかまえている可菜子は、いつになく必死に見えた。

はたから見れば、ボクたちはきっと、果てしなく滑稽に見えるだろう。

一番大切な幼馴染みを組み敷いて、中出しまでして、ボクは焦っている。

可菜子は、ボクを必死に繋ぎとめて、正常位の姿勢のまま、ボクを説得している。

仕方がない。

ボクと可菜子は、こうなるしかなかったんだ。

 

滑稽な、不自然な行動に先行する関係X(エックス)。それが自分たちの関係において正しいと直感されるのであれば、そのままの関係と出会いを所与のものとして歩めばよいのだ。

 

 

 

5. おわりに

 

本稿では「アストロ滑走団」を補助線とすることによって夏葉薫が恋愛と恋愛でないものを描く際に通底するふたつのテーゼを示した。夏葉作品の恋愛は「ふたりの関係について不自然に考えすぎてしまう必然」そして「関係のはじまりはふたりの意志より先に在るものによって支えられる」という主題に対する変奏の1つであり、これによって恋愛ゲームシナリオライタ夏葉薫の射程は恋愛とは名付けがたい白鳥可菜子の場合や同性同士の交友のように恋愛と近接する関係にまでも到達していると言える。

 

 

君と僕、僕と君との不自然なやりとりにこそ幸あれ。

 

 

 

脚注:

 

(*1) 嬉遊曲のなかの「夏子を巡る対話篇 その1」「夏子を巡る対話篇 その2」と名付けられた章を指す。なお「夏子を巡る対話篇」のような章タイトルはシナリオ本文中に出てこないが、該当箇所でのセーブデータ名として示されている。

(*2) なお、本引用部および白鳥可菜子のキャラクター設定そのものについては夏葉薫が関与していない、と夏葉氏本人より御指摘を受けたことを附記する。残りの引用部は白鳥可菜子シナリオ分岐後のもので、夏葉薫独自の展開である。